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最近は写真日記。

2月10日は「ニートの日」

 日本では多分既に一般的になっているNEET-Not in Employment, Education or Training、つまりは、就業、就学、職業訓練のいずれもしていない人を指す。2月10日はそのニートの彼らが、自分たちで「ニートの日」と定めた日らしい。東京都内で集会を開き、「第1回ニート祭り」を催すそうだ。
 働く意欲がある場合フリーターとなるが、その意欲もなく親にパラサイトしている場合、ニートになるらしい。ニート=ひきこもりという図式が成り立っている様だが、根本的に違うだろう。ニートは労働、就学意欲がない、ひきこもりはしたくても社会参加できないのだ。
 ニートは家事手伝いのことだろう、という話しもあったが、確かにある境界からそう呼べるかもしれない。相変わらず日本では「働いていないとおかしい」という労働者意識があるが、実際のところ「働いていなくても生きていける」人間はいくらでもいるのだ。親の財産を食い潰すとは言うが、貯め込んで使わずに国に持っていかれるよりは良いだろう。
 しかしニート=専業主婦という考えは違う。専業主婦というのは専業であるだけに、家庭のプロである。つまりそこに給与があるべきだ。森博嗣は専業主婦をしてくれるスバル氏に、毎月給料を払うといっていたが、それが専業主婦のあるべき姿であって、自然だろう。専業主婦は仕事である以上、ニートの枠には入らない。
 家事手伝いは「手伝う」べき対象が存在する。親だったり、もしかしたら結婚相手だったり。パラサイトとは上手く言ったもので、寄生できる余裕のあるものにしかパラサイトできないのだ。つまり本当のニートとは、経済的に裕福な家に生まれ、働く必要性が無い人間を指すのだろう。それが結果として次代に継ぐことができなくてもだ。社会に出ることが成人の儀式になっている日本では受け入れられないだろうが、こう考えてみると、ニートはある意味平和の象徴なのかもしれない。
 イタリアでは30前半になっても学生生活を続ける人間が多いが、大体が親元から自立できていない。それは経済的にも精神的にも。彼らに学生としての意識がしっかりと根付いているのであれば良いが、ただ働き口が無いために延々と学生を続ける場合も多い。かといって積極的に就業したいというわけでもないので、ニート予備軍と呼べるだろう。ペルージャでは外国人留学生が多いので、地元の人間は彼らに賃貸していれば働く必要がない。子供はそれを引き継ぐだけである。
 就職難だから、と社会の所為にすればニートの説明は簡単に片づけられるのだろうが、しっかりと分類していけば根が深いことに気づく。それは労働や就学、人生への虚無感だったり、労働者階級と非労働者階級の差、もしかしたら悟りの境地に達しているニートもいるのではなかろうか。東京大学物語にそういうキャラがいた気がする。ニートが叩かれる理由には、やはり国民の義務を負っていないところにあるのだろうが、労働者が「勝ち組」という意識が強いのもその理由だろう。「働いたら負けかなと思ってる」の反論が「職がないのが負け」に始終するのもおかしな話しである。

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