apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

狂々

 頭の回転が速くなる。否、別に頭がクルクル回るわけではないが、思考、もしくは演算能力が増す瞬間がある。人為的にはヴァファリンを飲んだ後、自然的には、それこそ気まぐれに。口を開くことさえ怠くなる。言語化することがどれだけ無駄な作業か思い知らされる。他人に伝える時間が無駄だ。他人に伝えようと思う感情は無駄ではないとしても。抽象的に表現すれば、時間が止まった様な、自分だけが早送りで進んでいる様な、対話者がまるでスロー再生で話している様な、そういう瞬間。稀に、処理能力が向上している時に、それに応える様な処理能力を持ち得る人に出会う。幸せだと感じる。その人が常時そういう状態なのか、それとも処理能力を抑えているのか、もしくは偶然的に僕と同じ様に一時的にリミッターが外れているだけなのか。いずれにしてもそういう時に交わされる言葉は研ぎ澄まされて、オルタナティブを必要としない、それでいて何でもない日常的な単語が非日常的な美をまとって紡ぎ出されている。
 沈黙をもって、孤独を楽しみたいとも思う。孤独とは寂しさを示す言葉ではない。孤独と寂しさではステージが違い過ぎる。孤独とは主体的に楽しむもので、寂しさは他人への依存度で度合いが変化する。集団の中の孤独と、集団の中の寂しさでは根源的に異なる。孤独は寂しいものでも、淋しいものでもない。幸福な時間である。
 幸福であることをついつい他人に表現したくなって、演算の断片を投げかけてみたくなる。フラグメントをそのままタネとして根付かせる人もいれば、ネタとしてそこで消費する人もいる。中にはフラグメントを補完しユニオンする人もいる。実際のところ誰がどれであっても僕にはどうでも良いことだ。
 人間にとってのインプット方式はある意味完璧だと思えるが、アウトプット能力は未熟過ぎる。インプットされた情報の内、どれだけの情報を外部にはき出せるのか。多様性と乱雑性はまた違うものだ。構造が同じで、表層が違うだけでは多様性とは言えない。稚拙な個性は個性たり得ない。この脈絡のない行間を埋めるために言葉を敷き詰めるのもまた、やぶさかだろう。論理的であろうとすることは、元々が論理的ではないからだ。理屈っぽいと良く言われるが、そう言われるたびに客観に近づいているのだなと感じる。感情だけではどうにもならない。論理だけでは意味がない。導き出される行動は、説明する必要もなく無駄のないものであることが理想的だ。もちろん全てにおいてその限りではないのだが、それこそ、それらを説明する行為こそ、やぶさかというものだ。