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最近は写真日記。

殺人という罪はその関係性によって左右されるのか!?

育児放棄で2歳児死亡、母親に懲役6年…地裁判決より。

判決によると、島村被告は今年3月3日から、三郷市三郷の祖父母方の部屋に長男、双子の二男と長女を置き去りにしたまま、十分な食事を与えず、同12日ごろに二男を低栄養などで死なせた。長女にも入院治療約10日間の脱水症などに陥らせた。

 痛ましい事件である。誰も知らないを連想してしまう根拠は、同じ2才児が亡くなっているからだろうか。母親がなぜそういう行動をしたのか供述が挙げられている。

島村被告は中学生の時に両親が離婚、不在がちな母親に代わり十歳近く離れた二人の弟の面倒を見た。二十二歳で結婚。不妊治療の末に長男を授かり、親族は喜んだ。だが間もなく離婚。二〇〇五年十二月、一緒に暮らすようになった別の男性との間に男と女の双子を産んだ。親族との関係は冷え込み、長男の運動会には誰も来なかった。

 双子の育児は大変だった。一人が泣きやめばもう一人が泣く。単身赴任した男性の帰宅は年に数回。祖母も母親も資金援助だけで育児を手伝ってはくれなかった。会社経営者の祖母には「ちゃんと子育てしろ」と厳しくされ、母親からは「仕事で朝が早い」と突き放された。自分の時間が欲しかった。

 境遇など殺人の理由にならない。言ってしまえば殺したかったか、殺したくなかったか。それだけなのに、誰かの所為にして自分を正当化しようとする。もっと言ってしまえば、事件が発覚した瞬間に自殺もできたはずだ。子供を顧みず自分が可愛くて、子供が死んだ今でも正当化する人間に、責任を追及しようとするのが無意味だと思う。人が既に1人死んでいるんだ。子供か大人か、保護責任遺棄かなんて関係ない。これはただの殺人で、そのまま放置していれば大量殺人となる。
 法律なんて学んでいないからその根拠がわからないが、保護責任者遺棄致死・致傷だけの罪というのがおかしい。まるで家父長制の名残じゃないか。家族内の事に関して、他者の介入を認めない。そういった家族神話が、法律も少子化対策も、色々なところでひずみを生じさせているんじゃないのか。血が繋がっていようが、保護者だろうが、殺人であることには変わりないはずだ。
 それに保護者責任者として責任の所在を一括にするのも問題だろう。一緒にいた男性は知っていたのではないか。知っていて放置していたのなら、共謀罪とかにひっかかってくるのではないか。女性と一緒にいる、という目的の為に、子どもたちを見殺しにした、であれば共謀罪としての目的が明確だ。親族は何をしていたのか。資金援助という関係性がある以上、何らかの罪が生じても良い。
 育ちが不幸な訳でもない。不妊治療の結果に出産もしている。親と不仲という割に資金援助がある。完璧じゃないか。記事を読む限り、親との関係性にトラウマを抱いている雰囲気だが最初から親を頼りにする位なら家庭など持たなければ良い。おまけに自分がそこまで親に頼っておきながら、自分の子供の頼りは放置というのが何より気に食わない。そんな人間に保護責任者としての責任を追及すること自体がやはり浅はかだ。

一月ごろから子供を放置して居酒屋に入り浸り、また別の男性と交際。三月三日、長男に「ママはもう居なくなるから」と言い残し、自宅近くのマンションでこの男性と暮らし始めた。長男は寂しさと不安から一日三十回も電話をかけてくることがあった。

 九日後、長男の「弟が起きない」との電話で自宅に戻った。玄関で声を掛けたが、動かない次男を見て不安になり、引き返した。その二日後、今度は「弟が血を吐いている」との電話。「体を揺さぶって起こせ。人工呼吸しろ」と長男に伝えたが、手遅れだった。「ママも悪いけど、おまえも悪い。自分一人でご飯を食ってんじゃない」。激高し長男を平手でたたいた。

 九日後の時点で救急車を呼べば次男は助かっただろう。同じ思いをして死ねば良いと思う。満足に生活できない中で、餓死に近い状況に陥って死ねば良い。それが罰だと思う。最初から誰かの助けを期待して子供を産もうというのが未熟なのだ。最初から親の助けを期待している時点でまだまだ子供なのだ。自分が人の親になったのならば、頼るべき人間は自分しかいないと覚悟するべきだ。それが現在の日本で、少子化対策もままならない日本での唯一の真実だ。子供を産みたいと言いながら、誰かの助けを期待し、それが整わないから子供が持てない、という人間には辛い世の中である。核家族化は、本来そういう意味なのだから。
 育児ノイローゼはわかる。毎日毎日子供の世話をしていたら心身共に疲れ果てるだろう。ただの社会人と違って24時間、365日休みがない。おまけに主婦業までこなさないとならない(子育てと主婦業を混同する人間がいるが、まるで別物だ)。共働きであれば保育園の利用だったり、男親が働いているのであれば、休日には男親が子育てを変わるか、主婦業を主夫業として受け持てばバランスは取れる。それである程度育児ノイローゼは回避できるものだろう。
 今回の事件は明らかに育児ノイローゼの所為ではない。「育児が大変」と見せかけてはいるが、親への依存と子育ての不適正からくるものだ。なぜなら一週間以上も子供の顔を見ずに生活できる育児ノイローゼはない。あくまで育児ノイローゼは育児との関係性に依存するものであって、距離を置いてしまった状態ではノイローゼとはならない。ちなみに育児ノイローゼは一般的に出産から1年以内と言われ、ホルモンバランスなどを考慮した結果の症状となっているから、今回の場合は明らかに育児放棄だ。

「ママのシチューとカレーが大好き。ママが帰ってこなくて寂しかった」。保護された長男はそう話したという。

「ママは悪くない。僕がご飯を自分だけ食べて、弟や妹にあげなかったから。僕が本当に全部悪い」

三郷幼児放置死事件 男児なお『ママ悪くない』より。
 それでも子供にとってはやはり親なのだ。そんな人間は死ねばよいと僕は思う。が、子供にとってはそんな人間でも生きていて欲しいと思う存在なのだ。人の価値も、罪も罰も、結局は法律なんて役に立たない。最初から人間性に左右される様な罪なら、法で裁かずに、罪を被った人間に罰を決めさせれば裁判も長引かなくて済む。罰を決めた人間も、その罰の重さを引き受けることになる。例えどんなに恨んでいても、後に気がつくのだろう。他人を罰するということの覚悟に。そしてそれは真逆の事にも言えることである。
 今回の事件で一番気になるのが、長男のその後である。今はまだ「ママ」が必要な時期だろう。後10年、20年した後に何を感じるか。自分が親になった時に何を感じるのか。その時にまた、今と同じ様に親をかばい、許すことができるのか。それがこの事件の大きな後遺症でもあり、その時に本来の解決となる気がするのだ。