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最近は写真日記。

理系と文系

 森博嗣が定義した理系と文系は「文章を書ける能力がありながら理化学の知識に基づいてるのが理系で、それ以外は文系」だったかと思う。要するに文系は理系の一部であるという考え。僕は中学までは理数系の成績の方が良かったが、高校からは進路のために文系コースを選択、それ以来文系一筋である。例えば森博嗣朽ちる散る落ちる。これは具体、混沌、抽象とテーマが変遷して行く。
 流体力学などに代表されるカオス理論。具体的に初期条件、境界条件を定めたとしても、初期条件のわずかな差で結果が著しく変化する。つまりは混沌。森博嗣はこれを抽象的に表現しろという(小説内での話し)。
 理系と文系のカテゴライズは実際のところ考古学には向いていない。ペルージャ大学のカリキュラムにしても一般科学、無機化学、古生物学、植物学、コンピュータ処理など理系の分野に食い込んでいる。現場に出ても測量をすることになるし、遺物の土器にしても最低限図形の理解ができていないと苦しむことになる。理化学年代測定法を用いるにしても放射性炭素について理解していなければならないし、専門ではないからと化学者まかせにするわけにはいかないだろう。
 日本の大学では考古学は基本的に文学部史学地理学科に属し文系になる。これが文化財保存とかになると理系の色が濃くなる。例えば工学部の建築史は明らかに理系であるにも関わらず同じ現場に出れば文系と同様の作業をすることになる。それが専門性の細分化であるならば、もうちょっと学問毎にカテゴライズした方が分かりやすいのではないか。大学の学部に合わせて学問を切り刻む必要もない。
 イタリアの大学ではその点しっかりと学問が立っている。始めに学問があって、その後に大学という枠組みが来る。理系と文系と言う考えは結局のところ、理系が残した混沌を文系が抽象で補う2層構造をとっているだけではないのか。学問の本質を見失い、思考を限定してしまうことが日本の大学の教育であるのならば、そこから生み出される研究者もまたカテゴライズされスタンドアローンとしてしか存在できないのではないだろうか。そんな彼らが導く未来には結局カオスしかないように思われる。