apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

疲れました

2日から10科目+実技のテスト。ただでさえ8月半ばからおたふくの予防接種の副反応で調子が悪かったのに、ご飯が食べられなくなり、風邪なのか微熱は続くし最悪なコンディションだった。でもなんとか這ってでも学校には行くエライ私。やっとテストが終わって、1番不安だったテストもクリアして少しほっとしたら、ご飯食べられるようになりました…。なんでこんなに小心者なんだろうか。見た目は強いのにさぁ。このギャップ。やだねぇ。偏頭痛もやっと緩和してきたしね。国試前になったらどぉなっちゃうんだろか。救急搬送されなければいいな。
にしても、前に立ってるオヤジ、ケツ掻きすぎ。ウザイ。

スキルとは何か?否、社会人とは何か?

 前提として僕は社会人という存在を懐疑的に見ている。学生と社会人を分けるものが通過儀礼的なものであり、絶対性のない価値観である、ということは明確ではあるが。
 さてid:KEN_NAITOからコメントで質問を頂いた、「社会人スキルとは何か?」という問いに対する応答である。質問を精査すると以下の通り。

問い「有意味なものとして語られるってことはつまりどーゆーこと?」
1.社会人として存在している人間には「社会常識」が備わっているはずであり、同様に「社会人スキル」もその範疇に含まれて良いのでは?
2.1が認められない理由として、「社会人スキル」は「社会常識」の上位にあり、特別視されているからか?
3.1が認められない理由として、「社会常識」が失われた結果新たに「社会人スキル」が必要になったのか?
4.大きな物語の影響力が低減した結果、小さな物語、もしくは島宇宙的、各コミュニティ同士がコミュニケーションを行う上でのコードとして「社会人スキル」が用いられてるのか?

 という4つの質問に分けられる。
 問いに応答すると、「社会人スキル」が本質的に「有意味なものとして語られる」タイミングは就職・転職の時だけである。次。2と3は表裏一体なので、並列に。人事採用時において、キャリアとは2種類のスキルに分けられる。専門的か普遍的横断的か。要するにスペシャリストかゼネラリストか、である。同様に社内スペシャリストか社内ゼネラリストかにも分類される。ある社内において、社内システムのスペシャリストでもあり、社内レベル的にはOfficeソフトが上級レベルである、と人事評価されていても他社に行った際の評価点は、それぞれのスキルが転化できるか否かでしかない。
 ドラクエに例える。魔法使いで育てる。メラゾーマを覚える。ルカナンも覚える。前者は専門的だが後者は賢者も覚える。メラゾーマは魔法使いしか使えないので、メラゾーマが有効な的には唯一無二のスキルとなる。後者は賢者の方がMP高い為、補助魔法要因としては賢者が勝る。さて魔法使いが転職をしてみる。賢者も転職をしてみる。それぞれ全ての魔法は残らない。残るのは基礎体力であり、得意魔法だけである。もしくはHPやMPである。極論だが最近の転職市場にあっては、そういった物が「社会人スキル」だと言える。上手い例えに成らなかった。ドラクエ9は転職すると魔法は一切残らなかった…。そういう意味ではFFの方がスキルとアビリティで捉えていてわかりやすい。
 で、2と3への応答である。大学時に新卒採用が始まるのは大学3年である。同様に一般的にはゼミ形式の授業が始まるのも大学3年である(ちなみに僕の大学は1年目から研究室入りだった)。最近の傾向として、ゼミの評価点は「どれだけ就職させたか」で捉えられる傾向にある。もちろん数%の人間を大学院に進学させれば大学の利益が上がるが、それ以上に対外的に「この大学に入るとこんな大手に就職できます」と歌った方が不景気時には効率良く利益が上げられる、と考えている様だ(直アンケート結果)。この構造は既に高校から始まっていて、「大学受験勉強」と「高校の勉強」、高校2年からスタートするのは前者である。
 とすれば、教え込まれる「社会常識」は、「受験勉強」であり「就職活動」である。新卒者、また大学生に先日質問をした。「キャリアとは何だと思いますか?」「何故就職活動をしようと思ったのですか?」と。彼らは答えられなかった。何故、自分たちが就職活動をしているのか、明確な答えを持ち合わせていなかった。まぁ、同席した上司に「何、馬鹿みたいな質問してんだよ」的な注意をされたが。要するにその前提がないのだ。だから「社会人スキル」が必要になるのである。「社会常識」はあるのだ。しかし、あくまでも「ルールに則った社会」の「常識」であり、範囲設定がなされている。いつ大学に入るのか。いつ就職するのか。いつ転職するべきなのか。いつ退職するのか。ライフプランは暗黙の了解とされているのである。それが2と3の応答であり、4への布石でもある。
 人事側も人を見る能力が劣化している。では何を見て彼らは「社会人スキル」と考えているのか。それはリクルートやインテリジェンス、マイナビ、日経、enなどが決めた、「明示化されたスキルシート」を見ている。それはマーケティングされた結果もある。新しい市場・分野が登場した場合、平均化する為にライセンスなり試験なりが設定される。その市場・分野はある程度マーケットを持っていなければ、「明示化されたスキルシート」には乗らないのである。例えば僕は求人広告取扱者資格証を持っているが、各社にそんなチェックポイントはないのだ。
 現状の採用活動ルールは、あくまでもゼネラリストを前提としたルールである。専門者にはカテゴリが中途半端なのである。そこで専門者を見極める為に別途試験が用意されており、しっかりとフィルタリングされる様に構築されている。
 つまり応募者が多様化、否、市場が多様化した為に、画一のスキル設定が困難になった。例えば広告制作スキルと言われ、PhotoshopIllustratorが使えます、Quark、InDesignが使えます、と記述されてもその人間のスキルは図れない。ゼロから創作できるのか。部品や素材があって初めて加工ができるのか。創作は上手いが加工作業は粗い、とか。分野が同じでも、明らかにスキルが違う。ましてやWeb広告制作となると、紙媒体と前提がまるっきり変わる。分野毎に「一般化」させる為に、「明示化されたスキルシート」が存在するのである。
 遠回りに遠回りを重ねた。「社会人スキル」を「ヒューマンスキル」と「ビジネススキル」に分けると、アカデミアに徹底的に足りないのは「ヒューマンスキル」である。何故か。「ヒューマンスキル」こそが「社会常識」とされている部分であり、「ビジネスマナー」を基礎とした「社会人的コード」だからである。アカデミアで求められる「ヒューマンスキル」はコミュニケーション能力に代表される「人間力」でもある。だから「社会人的コード」を知る必要性などない。課長の上が部長とか、本部長と部長と副本部長と副部長と誰が一番偉くて、お茶をどう出して、でも顧客の社長と、業者の社長でも扱いが違って、なんて話しは必要ないのだ。
 だからこそ法人化した大学が産業界から求められる内容が曖昧になる。スペシャリストを育成するべきか。ゼネラリストを育成するべきか。もしくは「社会人的コード」を徹底に教授するべきか。現状アカデミアに求められているのは一番最後である。「常識を知らない若者が増えている」という言葉が象徴しているのは、「社会人的コード」を知らない、ということである。しょうがないではないか。それを教授できる人間がいないのだから。という話しでもある。同様に、じゃあ、大学は何の為にあるのか。社会人が結局アカデミアの上位なのか、という問題が提起されるのである。
 僕は一番最初に書いた。社会人という存在を疑っている、と。日本の労働倫理観は既に崩れ始めていることは確かだ。が、同様にアカデミアの存在感も薄れているのではないのか、というのが問題なのである。

3歳の誕生日の週末


実は中は白身

そこから何が見える?

噴水頭

料理見学

千切りの手

必死

こっちも必死

我慢できずに

マトリョーシカコップ

手作りコールスロー

豆チラシ寿司

アンパンマンケーキ

嫁作アンパンマン1

嫁作アンパンマン2

食われるアンパンマン

カオナシ遊び

倫理学と実践

 石井敏夫先生が2005年に心不全で亡くなっていた。学部時代に学んだ教養科目で群を抜いて面白かった講義だった。倫理学とは何か。テキスト読解とは何か。そういったことをみっちりと教わった1年間だった。テキストは、ポール・リクールの「意志的なものと非意志的なもの?」、そしてカール・ヤスパースの「戦争の罪を問う」だった。
 前期は徹底的に、「倫理学と実践が循環しなければ、倫理学は腐敗してしまう」という前提を学んだ。後期ではその前提を踏まえた上で、カール・ヤスパースの「戦争の罪を問う」の序章を1行1行精読。
 あの講義を通して、アカデミアとは何かを知った。科学とは何か、ということを学んだ(たたき込まれたのは、考古学を通してだったが)。未だに大学の講義で残っているのは、石井先生の授業と考古学(専門課程)なのである。 大学時代、無欠席の授業はバスケと石井先生の授業と考古学だけである。ちなみに遅刻を含めると石井先生の授業のみ無遅刻だった。それほど面白かった。専門課程は面白くて当たり前なのだが、社会科学の面白さを教えてくれた講義なのだった。
 僕は考古学専攻だったので、哲学・倫理学課の授業は履修できない。特に専門課程の授業はまたげないのだが、石井先生の授業は学部内単位交換が認められていた。残念ながら学科をまたいで履修しているのは僕だけで、講義を受けている学生は皆顔見知りの様だった。
 講義は大変に難しかった。が、わかるまでしっかりと導いてくれた。毎回課題があり、毎回発表をさせられた。意志、本能、自由、それぞれの言葉を「調べる」という簡単そうに思える課題は、本当に厄介であった。
 戦後すぐにヤスパースが大学で行った講義の内容が「戦争の罪を問う」である。石井先生が示したのは、「ナチスを生んだのは誰か?」という問いと、「ドイツ的とは何か」という問いだった。そして「オウム信者は如何に社会復帰が可能か」という時事ネタを盛り込み、前期の前提である、倫理学と実践に立ち返るのである。
 石井先生は何故後期にヤスパースを選んだのか。恐らくは、当事者意識を持たせたかったのではないだろうか。僕が授業を受けてから既に10年以上も経過してしまっているので、当時の雰囲気や臭い、感覚は遠のいてしまっていて共時性は全くないのだけれど、今となって思い返してみれば、社会に対する当事者意識、責任の所在地を求める講義だったのでは、と安直に思ってしまうのだ。
 もちろん倫理学の方法論の徹底が根底にあったのは確かである。その意志は本当に自分でコントロールしているものなのか?その決定、決意、動機は、限界状況が訪れたとき、どう変化するのか。どう循環させるのか。未だに思考をする際、石井先生の板書の文字を思い出すのである。
 その後助教授になり、キャリア一直線だと思っていた。ベルクソン研究の第一人者というのは後ほど知ったのだが、まさか亡くなられているは思わなかった。しかも2005年だから、僕がイタリアに行っている時である。地中海を挟んだ、ニースに留学していたなんて知らなかった。
 ある時「子供が生まれました」そう嬉しそうに、報告してくれたことを思い出す。仕事中、色々と考えていたら本当に落ち込んでしまって、あの時必死で取ったノートを読み返したくなった。ただ「倫理学と実践が循環しなければ、倫理学は腐敗してしまう」その言葉だけは、ノートを読み返さずとも僕の中に根付いている命題である。

3歳おめでとぉ☆

 チビジュニちゃん、3歳の誕生日おめでとぉ!あっという間にお姉ちゃんになっちゃって、本当に女の子らしいかわいい笑顔を見せてくれるようになったね。まだまだわがままちゃんだけど、3歳で赤ちゃんと遊べるチビジュニは本当にすごいと思うよ。いつも洗濯物を手伝ってくれたり、一生懸命1日のお話ししてくれたり、「ママすきー」って言ってくれたり、なんてったってその変顔がママは大好きだよ。おちゃめさんでお転婆さんだけど、本当はとっても優しくて、保育園でもお姉さん役をしてるみたいだね。だからきっとママといると、その疲れが出ちゃってわがままになっちゃうんだね。しっかり受け止めてあげられなくてごめんね。朝一の保育園なのに、泣かず「ママ、頑張ってね=、気を付けて行ってね=」と叫んで手を振ってくれてありがとう。ママはそれで頑張れます。今日からママは夏休みだから、たくさん遊ぼうね。