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最近は写真日記。

イプセン

 イプセンは本で読んだというよりも演劇で観たものが多い。知り合いのプロデューサーがイプセンの戯曲を毎年公演している。その中で今でも思い出すのが人民の敵だ。圧倒的多数という言葉に躍らされる人間たち。この圧倒的多数とはイプセンの言う不完全で教養の無い群衆であり、その圧倒的多数に依って結局は蹂躙される運命にある少数の精神的貴族。結果として出た台詞が「1番強い人間とは実生活の舞台の上に1人で立っている人間なのだ」というものだった。
 戯曲はそこで終わってしまう。僕は、そこからの人間の物語が知りたかった。物質的にも精神的にも自給自足ができるのであればそれがベストだろうし、世捨て人こそが精神的貴族の生きる道なのかもしれない。しかし現実的に考えて、現代においては世捨て人的な人生を生きるのには困難があり過ぎる。他人に介入されない土地を探すのは不可能といっても良いだろう。
 森博嗣瀬在丸紅子シリーズの保呂草潤平の台詞を思い出す。本気を出せば周囲に疎まれ、いつでも周囲に合わせて居たという言葉や、集団を避けいつの日にか個人の中のパラダイスに戻る日があるのかもしれないという台詞。それに気づいた練無の言葉が、僕たちの前に居た保呂草さんってきっと本当じゃないんだよ。全然本気じゃない。というものだった。これは森博嗣の悩みでもあるのだろうし、宮台真司の「あえて」と同種のものだろう。
 日常から乖離している人間は、コミュニケーションが取れないがために社会に参加できない。解決法は二つあって、イプセンの孤独に生きる道とそれでも様々なコミュニケーションの表現を試しながら社会と関わりをもっていく方法だろう。前者には失望が、後者には希望が残る。ただどちらにしても「あえて」と言ってしまっては、言い訳をしてしまっては意味がないのではないのか。だからこそ僕はイプセンのそれからの物語が知りたかった。1人で立っている人間が現実世界においてどのような人生を送り、歴史の中でどう位置づけられるのか。死ぬまで「あえて」と言い訳をしない人間が正当に評価される日が来るのかを知りたかった。