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最近は写真日記。

降りる自由とフリーライダー 

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2004年02月08日 降りる自由 
 
 僕の中では、人間のアイデンティティは文化もしくは言語とは切り離せない関係にある。自国語、つまりは母国語は自己形成においてのメインフレームであって、歴史が培ってきた環境がその言語と循環してアイデンティティの基礎になる。環境が文脈から乖離していた場合においても、言語とその環境においてその人間はアイデンティティを構築する。しかし、もし戦争が勃発して他国に亡命を希望する場合、国を捨てるわけでアイデンティティはどうなってしまうのか。
 僕は17の時にオーストラリアに留学している間に、様々な韓国人に出会った。日常的には食事をしたり一緒に出かけたりもするが、授業という同じテーブルに着いた時にはそれぞれの状況が変化する。歴史や文化の話しをすれば彼らは韓国人であって、僕はただの日本人の代表でしかなく、僕という個性は認めてもらえない。
 僕には日本人としてのアイデンティティがあるからこそ、彼らとの議論の席に着くが、その議論から席にも着かずに降りると成れば僕は日本人としてのアイデンティティからも降りることになる。しかし議論から降りなければ、絶対的にこの議論には終焉は用意されていないわけで、応答可能性の連鎖というものに陥る。もしくはそれ以下の水の掛け合いになる。当時の僕は実際にこの議論には、もう本当に嫌気が指していて、降りる自由をいつも行使していた。何故、日本人としてではなく、個人の僕として見てくれないのか。何故日本では日本史、世界史なんて教え方をして、アジア史を構築しないのか。アジアで一丸となって基礎的なアジア史を作ればこんな不毛な議論も終わると思っていた。何よりも日本だ韓国だ、アジアだ西洋だなんて言わないで地球人として生きれば良いじゃないなんて安直に考えていた。僕は戦争当事者でもないし、豊臣時代からの話しを出されたところで知ったことではないと思ってもいた。
 でも現実的に考えてこの問題に向き合わない限り、アジア史どころか地球人なんて到底無理なのではないか。アジアにおいて日本人というのはいつまで経っても議論から逃げるだけで、席に着こうとしない話し合いのできない人種のままなのじゃないのか。降りる自由を持つことは当然だとは思うけれど、それがいつでも適用されるような共通認識や前提がないのが現代であれば、それを行使できるような環境作りのためには、やはりその降りる権利というものは効力を持たないのではないか。
 サブカルチャーにおいては日本はアジアを統合、もしくは共生の道に導く可能性を秘めているとは思うけれど、国家的な問題ではまだまだハードルが存在するわけで、そのためには公的な人間には降りる自由は認められないのではないか。例えば個人として他国の人間に会う場合でも、ある程度日本人の代表という気持ちを持ち得るだろうが、これはいくらでも降りることができる。しかし外交においてはどうやっても降りることはできないだろう。もちろん亡命者に対しての尊厳や権利は認められ保護されるべきであって、そういう覚悟での降りる権利は存在していなくてはならないし個人を尊重するのは当然だろう。それに国家間での統合や共生という道を選ぶ必要性もないのであれば、そんな議論から降りることは可能だろうし、ただ自給自足さえできれば良いだけの話しだ。
 例えばワールドカップなんて興味も無く、日本対ポルトガルを観ていて何気なくポルトガルを応援したりすれば、非国民と言われる。そういう意味での降りる自由ならばいくらでも日常的に認められるべきだと思うけれど、アイデンティティに繋がる問題から降りることって可能なのだろうか。特に海外に住むものにとっては自国と他国という現実は簡単に降りることのできる問題ではない。母国語と他国語を考えた時に、その母国から降りるということは僕にとってはまさにアイデンティティの消失であって、自己の崩壊に他成らない。それに自分にとって交換不可能なものを対象とした時に降りる自由という選択肢は存在するとしてもそれを行使することができるのだろうか。
 僕のアイデンティティの定義が間違っているのか、それとも降りる自由という捉え方を間違っているのか。あるいはその双方かもしれないけれど、どうしても腑に落ちなかったのでhirokiazuma.com-blogの過去の記事にtrackbackを出してみました。