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最近は写真日記。

子育ての資質

 友達親子という関係が浸透している様だが、それが子育てというものなのだろうか。子育ては、子供が親に必要以上に介入される、親に全く介入されない、親に助けを求めれば介入してくれる、と以上の様に大きく3つに分けることができるだろう。子供の成長に合わせて、親子ともに依存率が低下していくのが一般的だろう*1
 僕の場合は、子供の頃から両親は共働きであったので、ほとんど介入されずに育った。助けを求める場合は、祖父母であったり、親と時間が合う時は親だったり、時と場合に依って異なっていた。結果としてコミュニケーションの機会は親とはほとんどなく、友人とのコミュニケーションの方が僕にとっては重要だった。というよりも、僕が生きていた社会と、親が生きていた社会には差があり過ぎた。例えばファミコン一つにしてもそうだ。コントローラーの握り方も知らないのではゲームで一緒に遊ぶこともできない。コミュニケーションの土台が違い過ぎた。かといってそれが悪かったわけでもない。僕の親は必要以上に介入はしなかったが、その分僕は僕の社会を構成することができた。
 例えば現在20代の親が子供を持った場合、明らかに子供の見ているものと、親の見ているものに差があるだろう。仮面ライダー555を一緒に観て、後楽園遊園地に一緒に行ってくれる親はまだ良い。ポケモンを一緒にやってくれる親も居るだろう。しかしこの親の世代でさえ、既に社会は多層化していて、個々で差が開き過ぎている。秋葉に居る人間がキモいとか、自分が育ってきた環境にはそういうものが無かったからと、自分が準拠しているコミュニティ以外の物に興味を示さないで子育てが可能だろうか。
 子供が親の知らないもの、嫌悪するものに興味を抱いた時に、どう親が対処するのか。ネットが一般的になるまでは、社会には年齢的なハードルがあって、事物にアクセスする方法が決められていた。しかしインターネットが一般的になった今では、ネット端末さえあれば、基本的にはほとんどの事物にアクセス可能である。これはインターネット教育でも書いた。
 社会的倫理に反するものであれば、叱ることもできようが、親の個人的な感情で叱ったところで子供は聞くはずもない。具体例を上げれば小学生に携帯を持たせるか、持たせないかということであれば、自分たちが小学生の時には携帯など存在しておらず異次元の話しだ。しかし子供たちからすれば日常的なツールであって、僕らがファミコンを欲しがったことと根本的に変わりはない。親が子供に余計に介入するには、親も自分の興味外のことを学んでいなければならないし、いざという時に助けることもできない。介入をしないのであれば、親はそれだけの覚悟をしなければならないだろうが、友達親子という曖昧な関係性を築いている現代では、少子化と共に子育ての資質が失われている気がしてならない。

*1:両親が共に揃っている場合