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最近は写真日記。

料理にも熱意がありません

 「学食が無かったら、絶対に栄養失調で死ぬ人だよね」とは良く言われる。食べることは好きだが、作ることには興味がない。作りたくないのではなくて、手の込んだことをしたくない。パンがあれば、素のまま食べる。インスタントラーメンも具を入れず、そのまま食べる。パスタを茹でても面倒な時は、具無しのペペロンチーノを食べる。つまりオリーブオイル、トウガラシ、ニンニク、パスタのみ。
 それでも2002年の時はイタリア料理を色々と憶えた。レシピを書いて、実践して毎日チャレンジした。レシピを教えてくれたのが、今でもイタリアのレストランで働いているコックなので、その通りに作れば問題ない。一緒に住んでいる住人にも何度も食べさせ、彼らにもそのレシピを教えたりした。大学に入ってからは、奨学金のおかげで学食が無料になったので、わざわざ料理を作ろうとは思わない。
 「何故、僕は料理に興味がないのか」ということを中の良い友人と話しをしたことがあった。「なんだろうね。人一倍食べるし、美味しいものも知っている。出されたものは残さず食べるしね?面白いよね?他の日常的な事には凄い執着するのに、料理のことになるとまるで何も知らないんだもの」と言われた。他の友人からには「何で料理作らないの?できないから?」とも言われたが、料理のできるできないの境界線がわからない。
 色々考えた結果、答えは結局単純だった。「学食がタダで食べられるから」である。一人暮らしをしていればまず考えなければならないのは、生活費である。家賃、水、光熱費、通信費、そして食費だ。1日の生活を考えて見ても、自分で料理をした場合、そこで余計な時間を取られる。僕がもし料理の勉強でイタリアに来ているのであれば、率先して料理の事を考えるだろう。他の事を犠牲にしてもだ。
 だが僕は料理をしにイタリアに来ているわけではない。だからイタリア特有の食材があっても、それを調理したい欲求には駆られない。その食材を買う余裕があるのであれば、僕は自分が此処に居る理由のために使う。学生である以上、無駄なお金と時間を使いたくは無い。実際2002年の時の家計簿はほぼ食材で占められている。今はそれを全て浮かすことができるので、余計な心配をしなくて済む。
 美味しいものはお金があればいくらでも食べられる、と思っている。子供の頃から外食が多かったし、旅行すれば必然的にその土地のものを食べる。実家が果物屋だから、必ずその土地の農協には赴き、その土地の人が行く料理屋を教えてもらう。イタリアでしか食べられない美味しいものは、自分に経済的な余裕ができてからで構わない。自分がやりたことが成し遂げられてからでも、物質的な欲求はいくらでも満たせる。だから自分が此処にいる経緯と理由を考えた時に、僕は料理まで手を伸ばすことはできない。自分のやりたいことをそっちのけで、料理の腕前が上がったところで、僕は嬉しいとは思えないのだ。
 文中、登場した中の良い友人にはいつも助けてもらっている。「今日何か作るからさ、追いでよ」といつも美味しいものを食べさせてくれる。その人も別に経済的な余裕があるわけではない。ただ「料理を作って、それを美味しく食べられたら、それがストレス解消になるから」と誘ってくれるのだ。一応その人も料理に携わる人なので、そういう一面もあるが、僕はいつも感謝して美味しく頂いている。「美味しいものはお金があればいくらでも食べられる」と思っているが、「世の中にはお金がいくらあっても食べられない美味しいものがある」とも思っている。後者は間違いなく自分で作れる様なものではない。そういう意味においても、僕は料理に対して冷めているのだ。
 いつも本当にお邪魔しています、そしてご馳走様です。