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最近は写真日記。

アーティストとデザイナー

 つい先日、僕の友人達が白熱したバトルを繰り広げた。お題は「映画はエンターテイメントか否か」。1人は彫刻家であり、アーティストである。1人は絵の才能に恵まれながら、美大には進まずインダストリアルデザインの道に進んだ人間である。話の元になった映画は先日食事をした諏訪敦彦監督のM/OTHER。
 アーティストは言う「あれはカテゴライズされるべき映画ではない。今あるカテゴリーから脱却する為に作られたものであり、言葉を越えようとしているのだ。言葉で全てを表現できるわけがないのだから、それをエンターテイメントという形に押し込める必要はない。一つの作品と見るべきだ」
 デザイナーは言う「作品を作るのは自由だ。しかしそれを映画として公開する限り、言葉で説明されるべきだ。お金を取るからにはね。面白いから面白いとか、良い映画だったから良い映画なんだでは、他人には伝わらない。言葉で説明できないものでも、ある一定の基準は必要だ。僕だって良いものを良いとは、認めるけれど、それを映画という形態を取るのであれば、しっかりと説明されるべきだ。僕はエンターテイメントという柱を基準に考えている」
 僕はM/OTHERを見ている時間は無かったので、ただ横で聞いていたが、多分作品を見た後に諏訪監督を食事をしていたら、酷い質問をしていた様な気がする。
 若きアーティストの言うこともわかる。作品が一々言葉で説明できてしまったら芸術は意味を成さない。言葉で説明できない部分を芸術が補ってくれる。例えば「芸術とは発信者側と受信者側の共有体験の確認装置」と言えるだろう。アーティストとして商業よりも作品に価値を置くのは当然である。
 デザイナーの言うこともわかる。インダストリアルデザイナーを経験して来た彼にとっては、デザインは製品ラインの一つの工程でしかないのだ。つまりプレゼンをし、辻褄を合わせなければならない。基本的に商業ベースであるために、売れるものを作らなければならない。芸術家の様に、ちょっとしたマスターベーションがお金に成った、では食っていけないのだ。
 お互い、クリエイターでありながら、立ち位置が対極である。僕の場合、何度も繰り返しているが言葉を重要だと考えながら、信用していない。しかし信用していないからと言って、言葉をなおざりにするわけではない。そういう意味で言語的転回は僕にとっては受け入れやすいものだった。
 僕は考古学を学ぶけれど、別に考古学者に成りたいと思っているわけではない。逆に彼らは自分を彫刻家であり、アーティストであると自負している。もちろんデザイナーに関しても、それを認めている。そういう意味では彼ら自身が既にカテゴリーの存在を認めているのだ。デザイナー自身、カテゴリーに基づかなければ新しいものは生まれないという思考なので当然なのである。
 感性だけに捕われるのは危険である。芸術家にとっては1番恐れるべき自体だろう。しかし既定の概念に捕われていては、次のステージに進むことは容易ではない。僕はできる限り中道でありたいと思うが、中道であるためには自分の幅を知らなければ成らない。1度壊れて見なければならない。僕が彼らの議論に加わらなかった理由の一端はそこにある。議論で相手を打ち負かしたところで、何の意味も無いんだと冷めてしまったのはいつだったか憶えていない。感性に訴えるのであれば、一生作品を作り続ければ良い。言葉に訴えるのであれば、言葉を追及し続けるべきだ。そこから飛躍する可能性は高くなる。しかしそれはやはり自己の人生からは切り離せないものだ。その人の人生という拠り所があってこそ、全ての作品は完成する。他人を本気で説得させたいのであれば、やはりそれをやって見せるべきである。やり続けて見せるべきである。そうでなければ、意思は受け継がれないし、言葉は重要性を失ってしまう。彼ら2人のこれからの生き方が、お互いの言わんをとしていたことを証明してくれるだろう。