apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

「頑張れとか, 頑張るなとか」( ̄□ ̄;)!!マイ ブッダァッ!!

 id:KEN_NAITO:20050223#p2、id:KEN_NAITO:20050225#p4、id:KEN_NAITO:20050301#p3の[幸福論]〜頑張れとか, 頑張るなとか〜シリーズ。このシリーズの目的として、

身近な人間が鬱になってしまった場合にどう対応すればいいのだろう, (略)
或いは, 鬱になってしまうのを防ぐ考え方

 となっている。このシリーズはまだ続いているが、僕にも思い当たる節があるのでトラバしてみたい。ただ今回の話しは僕だけの話しではないので、その友人には先に謝っておこう。ネタにしてすまんな、と。しかし、既にこの話しは他の人間によってネタにされ、出版までされているので、それに比べれば可愛いものかもしれない。
 僕がまだヤンチャな中学生だった頃の話し。何度も書いている様に、僕には幼なじみと呼べる友人が2人いる。ある時その内の1人が学校に来なくなったと、担任の教師から個人的に告げられた。僕もそれは気づいていたが、電話をかければ問題なく本人に繋がっていたので、ただ単に学校に行きたくないだけだろう、と考えていた。事実彼は子供の頃から塾や習い事を休み、僕の家で暇を潰していた。その時もそういうものだろうと思っていた。
 しかし担任に呼び出され、「電話が繋がるのはお前だけだ」と言われた時には、やはり不可解に思われた。よくよく話しを聞くと、イジメを受けており、それが嫌で学校に来なくなったのではないか、というのだ。その後イジメが問題になり、彼は登校拒否児として扱われる様になる。が、担任からそういう話しを聞いても、僕にはピンと来なかった。
 彼は子供の頃から頭の回転が早く、口げんかではまず勝てなかったし、策略を巡らそうものならば、彼を先読みできる人間は、僕の周囲にはいなかった。それでいて感情的な一面があり、「むかついたら、絶対に許さない」と、相手を殺す勢いさえ見せる様なところもあった。そんな彼がイジメ「られて」、そのまま殻に閉じこもるとは考えられなかったのだ。「できる限り力を貸して欲しい」と担任の方から言われ、「あ、はぁ」と曖昧に返事した。
 僕にとっては、彼が学校に来ようが来まいがどうでも良かった。それに「電話が繋がるのはお前だけ」と言われても、問題はあった。実際は電話をかけて彼に直接繋がっても彼の声を聞けることは無かったのだ。詳しくは憶えていないのだが、最初の頃はお互いに話しをしていたのだと思う。しかし周囲が騒ぎ出してから、彼の口が開くことは無かった。彼は誰とも、家族とも口を聞かずに部屋に閉じこもっている様だった。
 僕は暇な時には電話をかけ、一方的に話しをした。「聞いてる?」と尋ねると、電話の向こうでは何かしらの合図があった。咳払いだったり、受話器を叩く音だったり。彼と遊びたい時には彼に電話をした。ゲームや漫画、映画の話しなどは、彼じゃないとバランスが悪かったからだ。他の誰とゲームをしても、僕が圧勝してしまう。他の誰かと本屋に行っても、漫画の話題についてこれない。映画に行っても、「格好良かった」「面白かった」で話しが終わってしまう人間ばかりだったからだ。ただ単に僕は遊び相手が欲しかった。
 そんなやりとりを半年程続けたある日、彼が電話をかけてきた。「遊ばない?」と言われ、「うん、じゃあ」と待ち合わせをして、以前彼と行きつけにしていた本屋に行ったり、中古屋に寄ったりして、最後は僕の家でゲームをして帰って行った。「学校に行かないの?」とも「何があったの?」とも聞かなかったし、その必要も無かった。彼に読んでもらいたい漫画を薦め、一緒にやりたかったゲームをやった。それから僕らは以前の様に遊び始めた。
 後から知ったことなのだが、彼が部屋から出て、外で遊んでいることを彼の親も担任も知らなかったらしい。また僕と遊び始める以前も、彼は1人で外に出ては本屋等に行っていたという。それから何ヶ月かして、彼は学校にも顔を出す様になり、卒業もした。ただやはり根本的な問題は解決していなかったらしく、薦められた高校を1年目で中退し、また部屋に居る様になった。その間も僕は、僕が遊びたい時は彼といつもの様に遊んだ。
 翌年には彼は定時制に入学し、大学にも受かり、卒業後直ぐに就職。それからちょっとして、定時制の頃に知り合った恋人と結婚した。今でも会えばゲームや漫画、映画の話しばかり。本屋に行き、中古屋を覗き、PCショップに寄っては、僕の家でゲームをする。彼があの頃のことをどう整理しているのかはわからない。ただ僕が当時、彼のことを「ヒキコモリ」「登校拒否児」「鬱病」とレッテルを貼り、そういう対象として向き合っていたら、また違った結果になっていたかと思う。オーストラリアに留学している時に、彼からその時の感謝の言葉を貰ったが、彼が高校を卒業する時に僕はこう返した。

 僕は別に君が登校拒否をしているから電話をしていたのではなく、僕がただ君と遊びたかったから電話をしていたのです。ただそれだけなのです。君に義務教育課程を終わらせてほしいわけでもなく、学校に一緒に登校しようというわけでもなく、ただ、あのころから今も変わらずやっているような君との遊びを、僕のエゴが深く望んだ結果なのです。君はもしかしたら、救済や深い闇から抜け出すきっかけを待っていたのかもしれません。しかし真実は、あのとき君に指しだした手は僕自身の、僕が気持ちよくなるためだけのものでしかありませんでした。ただそれが、偶然か奇跡か君と僕との、何かしらのベクトルの方向と一致しただけなのです。僕はそういうものがもしかしたら、人間というものの営みなのではないかと若い頭で必死につじつまをあわせていたのを思い出します。そしてそれは、世界に出、いろいろな人々に出会っていくうちに、僕の真実になりました。僕が平素君に話しているように、僕は親でさへ他人にしか思えないのです。君や僕の彼女でさへです。誰が一番などといったような高慢なランク付けもなく、僕以外の人間はすべて平等に他人でしかないのです。こんな僕を社会に適応している人々から言わせれば「寂しい人間」でしかないのでしょうが、他人だと割り切れるからこそ、人のことを知ろうと努力をするのです。もし、そういった努力を人々が怠り、皆同じ、俺も、私もなどと群れ、集団を形成している社会はとても欺瞞に満ちていると思われます。先程も述べたように、人生に一度でも、瞬間的に他人と分かり合えることがあったならば、奇跡か、ただの思いこみでしかないと狭量の僕には考えることができないのです。

 原文まま。この手紙の日付は1998年3月3日、20歳になった頃である。少し長めの手紙の一部分であるのだが、やはり若さは隠せない。この手紙を彼が未だに持っているかはわからないが、根本的な僕の気持ちは変化していない。中学当時も、20歳当時も、そして今も、僕には成長が見られない部分がある。それは「遊び相手がいない」という状況は、実のところ、自分がヒキコモリや鬱になる可能性を秘めていることでもあるだろう。つまり彼が僕にくれた「君が居て良かった」という言葉は、実際は、僕が彼に返さないといけない言葉でもあるのだ。
 僕は「頑張れ」という言葉をあまり使わない。「強い・弱い」という考え方も好きではない。それは結局他人と比べた自分でしかない。他人と比べて「頑張ったり」、「強かったり」「弱かったり」するのだ。もちろん、過去の自分と比べて使うこともあるが、ほとんどの場合そういう言葉を用いるのは「誰か」と比べてる時だろう。僕は彼に頑張って欲しい訳でも、強くなって欲しい訳でもなかった。その人のことを知っていれば、もしくは感じていれば、誰かと比べる必要もなく、その人間を必要とすることになる。僕にとって彼は、そういう存在だった。登校拒否でも、ヒキコモリでも、僕にとっての遊び相手は彼しかいなかった。
 この記事を書こうと思って、手紙の日付を見たら、今日の日付と一緒だった。もう7年も経っている。本当は色々なサイドストーリーがあるのだが、とりあえずの概要である。ちなみに出版された僕らの話しとは、当時の僕の担任は登校拒否児の教育に熱心で、何年かして自分の手記をまとめたのだ。話しは幼なじみが高校に入学するところまでだったかと思う。僕が高校を卒業する時には既に出版されていた。もちろん僕も登場するのだが、「何か違くないか?」と本を読んだ後に、2人で首を傾げたことを憶えている。