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最近は写真日記。

「俺が校則だ」

 中学の頃はあまり校則は厳しく無かった。僕は脱色しても何故か茶色く成らず、いつも赤くなっていたが、体育教師に「赤くなっちゃってるじゃん、染めたら?」くらいのもので、職員室に呼ばれて注意されること等無かった。髪が伸びていても、特に何の問題も無かった。
 そういう環境で育ったために、高校の校則は受け入れ難いものだった。カバンは指定、女子の靴下も指定、男子のワイシャツも指定で、頭髪服装に至っては異常なくらいに厳しかった。前髪はまゆ毛にかかる程度。耳に被っても駄目。それだけならばまだしも、整髪料の使用も認められず、ムース、ジェルなど使っていると、その場で頭を洗わせられた。脱色などしようものならば停学。毎月抜き打ちで服装頭髪検査があり、その際に持ち物検査も行われた。今考えてみてもおかしいものばかり。
 体育着はもちろん指定で、Tシャツの使用は認められなかったし、ジャージを切っていたりすると、新しいものを買わされた。生活指導の教師は高圧的で、「お前らを退学にしたところで、俺には何の問題も無い」というニュアンスの発言を授業中に良くしていた。おまけに「馬鹿はしゃべるな」と授業中、生徒に言い放った教師も居た。
 男子生徒はまだ耐えられたかもしれないが、女子生徒に至っては見ていて可哀相なことばかりだった。女体育教師に髪の毛捕まれたり、まゆ毛消されたり。冬場寒くてスカートの下にジャージを履いていると、脱がされたり。人権等何も無かった気がする。また女子生徒に特に注意されていたのが、メディアへの露出で、テレビや雑誌等に制服で掲載されたりするとほぼ退学決定だった。
 あまりの校則の厳しさに「誰か自殺しないかな」と、本気で考えていた。これは僕だけで無く、他の子達もこういうことを考えている様だった。あまりの厳しさに教師に対抗する人間も居たが、「生徒手帳に書いていようがなかろうが、関係ねぇ。俺が校則だ」とねじ伏せられていた。
 僕は朝いつも校門で呼び止められ、ごちゃごちゃと文句を言われた。教室に入る前に、職員室に行くことが多くなって、生活指導と関係の無い教師達には「またお前かぁ。もう諦めなよ」と諭された。中学にしても高校、大学にしても、僕は先生に直接質問をしに行くことが多いので、仲の良い先生は沢山居たのだ。高校当時は、仲の良い教師ばかりで、生活指導の教師だけが関係が上手くいかなかった。そのため仲の良い教師と職員室で話しをしていたりすると、生活指導の教師が近づいて来ては「お前のそのセーターは校則違反だ」とその場で脱がされたりした。兎に角、事あるごとに、僕は注意を受けていた。
 しかし僕自身、悪いことをしている自覚は何も無い。髪を切りに行く時間が無かったから、そのままに成っていた。ドライヤーを使っていると髪の色は変わってくる。温かく成ってきたから、セーターをベストに変えた。暑いからブレザーを脱いで、シャツだけで歩いていた。オーストラリアで開けたピアスの穴にしても、高校にピアスをして行くことも無かった。しかしどれもこれも、校則違反で結果的に親を呼ばれた。
 ただ仲の良い教師の中には理事長もいて、母親と一緒に登校した際には、色々と話しを聞いてくれた。ちなみに母親は呼び出されることには慣れているので「またぁ?あんたが悪い事をしたの?それとも、学校が馬鹿なの?」と、僕と学校の間に余計な口出しをすることも無かった。この時も校長室に呼び出されて、校長から「何か言いたいことがありますか?」と言われ、「ベストを着用していることが何故いけないことなのか、僕には理解できません」と僕が一方的に話し続け、母親はただ横に座ってお茶を飲んでいるだけだった。その帰り道で「ああ、何、あの学校指定のセーターを着てなかったから呼び出されたわけ?あれ、何処やったっけ?洗うの面倒なんだよ」と言われただけだった。思い出して見ると、学校に母親が呼び出されても、帰宅後に父親から「どうした?」何て口出しされたことは1度も無かった。
 高校卒業後も時間があればバスケ部の練習に参加し、私服金髪で通っていたが、生活指導の教師というのは、何故か卒業生を避ける傾向にあるらしく、「こんにちは」と挨拶しても、「ああ」と答えてはそそくさと職員室に入ってしまう。仲の良かった教師と話しをしていると「あれでも先生方が頑張ってるんだけれどね。上の人や周りの人間からは、もっと厳しくしろって言われてるんだ、本当は。あの人たちも大変何だよ、色々と」何て卒業してからぶっちゃけられても、在学当時の憤りは消えるわけも無いのだ。
 本当は高校まででそういった事を終わらせたかったが、大学に入っても同様の事態が起こった。「金髪じゃあ、現場に入らせるわけにはいかない」と言われ、年寄り教授を相手に色々と大変だった。「他の学生に迷惑をかける位ならば、染めてください」という子も居たが、僕が髪を染めることは無かった。たかが髪の色だが、当時は既にカットモデルをしていて、その髪型、色にするのに美容師さんは色々と工夫しているのだ。お金を貰うこともあったので、それをたかが死に損ないの好き嫌いで染める訳にはいかなかった。何よりも一方的な価値観で自分を支配されることが、一番の屈辱だった。しかも学問を教える人間がそういうことを平然としているのが気に食わなかった。憤りを感じ、愚痴を言いながらも白髪染めを用意する同級生達にも腹が立ち、迷惑をかけていることはわかっていながらも、それに従うことは絶対にできなかった。
 今では頭髪服装でごちゃごちゃ言われることは無いが、成長過程において否定され続け、他人に迷惑をかけ続けたというのは僕の中では良い経験だった。エミネムは「俺のモチベーションは復讐だ」と言っていたが、当時暴力に走らず、アルコールや煙草に走らなかったのは、僕なりの復讐の仕方がわかっていたからだろう。それは今でもちょっとした僕の原動力だったりするのだけれど。

「守るものではなく立ち向かうもの」?!いまどきの「校則」事情
http://www.shibukei.com/teenslab/2005/03/11/index.html