apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

迷いと悩みと

 「人生について悩んでるんですよ」と言われ、話しを聞くと大抵の場合、「悩み」では無くて「迷い」の場合が多い。僕の中で「迷う」とは選択肢がいくつかあり、そのどれにするかを「迷う」という意味で用いる。「悩む」とはその選択肢さえも無い場合、本当に行き詰まった時に「悩む」と言う意味で使う。
 「ain_edさんは悩みとか無さそうですよね」と良く言われる。「ああ、確かに迷ったことはあるけれど、悩んだことは数える程しかないかもね」と応える。「じゃあ、君は何かに悩んでいるの?明日さえわからない状態で、心底自分と向き合って、脳を使って、悩んだことはある?」と逆に質問すると「……。」と成るのだ。言ってしまえば僕にとっては「生きるか死ぬか」でさえ「迷い」でしかない。どちらか選べる内は、選択肢がある内は、結局のところ「迷い」でしかない。選択肢が無くなった場合、人は迷いもせずに死ぬか、悩みながら生きるだろう。
 「でもain_edには迷いもあまり無いよね」とも言われるが、「例えば初詣でをするでしょう?でもお参りする道程には出店が沢山あって、寄り道も沢山できる。ただ僕の場合は『お参りをする』と決めたら、それが優先されるだけなんだよ」と、聞き手には多分意味のわからない説明をしている。説明しながらも、「初詣でをする」という目的がわからなくて悩むのが本質なんだろうと感じているのだ。
 具体的に言えば「僕は考古学を学ぶ。学びたい対象があって、それ以外の寄り道は考えていない。明日死ぬかもと考えた時に、一歩でもその対象に近づいていたいから」と言うことである。その道程で、近道、遠回り関係なく、自分にとって必要かどうかで、迷うことはあっても、「考古学」という根本に対して悩むことは今のところ無い。
 僕がそういう意味で悩んだのは小学校・中学校の頃である。何故なら「自分が学びたいことが何なのかわかっていたが、それが世間一般にどうカテゴライズされているか『知らなかった』から」である。知らないことに関しては迷うこともできず、ただ考え、悩むことしかできなかった。自分がどの学問を使うのか。自分が成し遂げたいことに対して、一番適した学問は何なのか。それはつまり学問と同じである。世界中の誰しもが考えていない、見えていないことを、自分1人が考え目の当たりにしている時に、初めて悩む瞬間が来る。
 僕の中で「悩む」とはオリジナルであろうとする瞬間なのである。結局のところ「迷える」間は、その前例があって選択肢があるのだ。もちろん人それぞれ違う人生を歩み、持っているものは違ったとしても、選べる道があるということは、「迷う」余裕があるということなのだろう。