apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

個人かクラスか

 コメント欄でSNSの話しがあったが、どうやら僕の人間関係の築き方は、既にクラス分け(カテゴライズ)された集団の中から個人を求めるわけでは無く、最初から個人を対象にしている様だ。
 SNSに積極的に参加できない理由として「同窓会とかクラス会にも行かない」と書いた。ただ飲み会、煙草、酒が面倒だ、という理由はあるが、尤もらしい理由としては、「クラス会を行うまでもなく、会いたい人間には個人的に連絡を取っているから」である。もちろん集団で同じ時間を共有する「場」というものが、各々に影響し合い、そういったものが面白味なのかもしれないが、僕には未だに理解できていない。
 チャットや掲示板にしてもそうだろうか。同じ話題、趣味、状況に依ってチャット部屋はカテゴリー分けされているが、僕はそのカテゴリー欄を見るだけで満足してしまう。掲示板にしても同様だ。SNSでも様々なコミュニティがある。大学や専門、仕事、趣味などで分けられ、自分から登録し、オフ会が行われる。同窓会やクラス会も、僕にとってはオフ会の雰囲気なのだ。
 自分から社会*1へ参加し、その中で人間関係を構築していく。僕はどうしても自分から積極的には社会に関わり合いを持てない。どこかしらで、カテゴリー分けされ、範囲が限定されてしまうことを嫌っているのだろう。そして何よりも、コミュニティに準拠することに依って、自分が限定されてしまうことを、恐れているのだ。一般的に、単純に言えば、ヒキコモリなのである。
 はてなの様に個人個人で情報を発信している場合は、対象がはっきりしているのでコミュニケーションを取りやすい。興味がある対象を見つけた時に、過去ログを読み、思考バターンやキャラ、視点の位置を狭めていけば、現在の書き手に近づける。僕の場合は最初にクラスありきでは無く、やはり個人が柱になっているのだ。
 自分の歩む道を決めた時、「自分が1つのことを続けて行けば、道や方法は違えど、自分が求める人に出会える」と考えた。僕は当時中学生で、「考古学」をやりたいという人間は居なかったし、僕がその道を本気で歩むとは、大多数の人が思ってもいなかっただろう。結果として今でも関係が続いているのは、「お前は、あの頃から考古学って言ってたしな」と、「中学校」という決められた枠組みの中で僕と付き合ってくれた友人では無く、「個人的に」僕に興味を持ってくれた人間だけなのである。
 それでも高校までは営業スマイルでコミュニティに参加し、コンパも行き、中学校の仲間とも頻繁に連絡を取った。「社会」に参加していれば、他人と繋がっているという安心感があったのだろう。しかしオーストラリアに行き、自分がそのレールから外れた瞬間に、自分の手に残ったものは、ほんの一握りのものでしかなかったのだ。それ以来、僕は積極的にコミュニティに参加することを止め「出会える時まで」自分のことに専念することにしたのだ。
 「人を探すのでは無い。人に出会うのだ」という言葉があるが、その人に出会う日まで、自分のすべきことを続けていけば良いと思う。友にしても、恋人にしても。かけがえの無い人に出会えるまで。

*1:ここではコミュニティという意味合いが強い