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最近は写真日記。

世界の中心はmixiか

 「mixiで昔の友人に会えました」「そういやお前の彼女がさ」「mixiの集まりで」とか出会い系のうたい文句かと思ってしまうくらいに、最近やたらと「mixiのおかげで」という話を耳にする。多分最初は「あの人は今」的なノリなのだろうが、ミイラ取りがミイラになって、結局「mixiのおかげで」なんて話しになる。いやこの際善し悪しはどうでも良い。気になるのは、何故コミュニティを新規開拓せずに、過去「選ばれた」コミュニティ内に戻ろうと、もしくは再発見しようとするのか。
 僕は比較的に薄情な人間だ。薄情とは正に情が薄いと書くが、友情にしても愛情にしても情での繋がりは断ち切っていくタイプである。だからこそ友情とか仲間とか、そういった安易な言葉で人との繋がりを限定したくない。思い出の共有だけで人との繋がりを特化したくない。主体的にではなく、外的装置を利用しなければ再発見できない様な過去の出会いには、残念ながら興味がない。それは例えば同窓会に似ている。僕はクラス会や同窓会に対して何の価値も見出せない。会いたい人間ならば、どうやってでも連絡は取れる。クラスメイトにしても、教師にしても。その場でなければ会わない様な人間に会って昔話をするのには気が滅入る。
 「昔は良かった」という懐古的な老人に似ているのだろうか。現状依拠集団がありながら、過去を美化し、そこから再び繋がりを模索しようとする。出会いのリサイクルとでも表現した方が良いのだろう。
 一度通った道をもう一度通りたくはない。アインの散歩をしていると、同じ道を通って帰りたいとは思わない。新しい町を歩くのに、同じコースを辿ろうとは思わない。一度出会った人間を見抜けなかった自分に責任を持ちたい。人は「探す」のではなく、「出会う」ものだ。出会いは一期一会なのではなく、そこにいる自分とが一期一会なのだ。
 「昔の彼女」というコミュニティがあったとしよう。それは僕が今までつきあい、結果別れて来た彼女たちが集まるコミュニティである。考えただけでも恐い。その中の誰かに僕は会いたいと思うだろうか。答えはやはり否である。一生会う気が無いから別れたのだ。「お友達」になるために別れたのではない。ましてや「お友達」というカテゴリーに過去を押し込めて、そこに未練を感じて生きていく気もない。
 僕にとって過去のコミュニティ、得に「選ばれた」コミュニティとはそんな様なものだ。mixiの中にある世界の思い出繋がりにはまるで魅力を感じないのはその所為だろう。それは同窓会やクラス会にしても同様である。過去自分が取りこぼした思い出をまた拾いたいとはどうしても思えないのである。