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最近は写真日記。

自己実現欲求

 「いい加減、ニートの定義を明確にして欲しい」なんて書くのはこれで何度目だろうか。「ニートフリーター対策」という時点で、元々のNEETの意味からズレている。これに「引きこもり」も含まれて、とりあえず「働いて無い人、もしくは働いていても収入が低くて、税金を納めて無い人」が、その範疇なのだろうが、実際のところ日本の場合は「社会的」な問題ではなく、「経済的」問題が全てという気がしてならない。要するに「私たちはこんなにも働いて、税金を納めているのに、あなたたちは働きもせず、税金も納めず、そのままで許されると思っているの?」的な妬みが根本にあり、「そういう人間たちの為に後々公的資金を使われるのはごめんだ」という結論に行きつくわけである。言ってしまえばメディア側が日常から再発見したネタの1つでしかないのだが、働かなくても生きていける世の中なのだから、それはそれで良いはずである。いい加減、国民の三大義務だけで、就労と納税の説得は困難だろう。というのも「健康で文化的な最低限度の生活」が働かずとも出来ているのだから。
 これもまた何度書いたことだかわからないが、いわゆるニート問題は、細分化される必要性がある。包括的に前述の問題を語ることはできず、何よりも就労意識の差分が表層だけで語られ、学生や個人投資家でさえニート枠に組み込まれている。「働く意欲が無い」のか、「働きたい」のに「仕事がない」のか。また「働く意欲が無い」というのは「やりたいことが見つからない」「就労の意味がわからない」「働かなくても経済的余裕がある」等、各々に依って状況は違う。フリーターに至っては仕事があり収入があり、「日々の生活」はまかなえているにも関わらず問題視される始末である。
 国側としては納税さえしてくれれば、基本的人権を尊重しますよ、くらいしか言えないだろう。この際、労働義務には目を瞑って、納税の取り締まりを強化すればある程度の「ニートフリーター対策」にはなるはずである。税金を払っていなければ、国民としての権利を今後一切認めない、とでもすれば良い。ただその際の問題点としては、国の税金の用途になるのだが、国民側も「ニートフリーターは認めない」と言うのであれば、税金の用途不明金にも目を瞑れば良いだけの話しである。いつの世でも住居不定者は存在するし、日雇い労働者も存在する。一歩海外に出れば、道端で物乞いをする人間ばかりだ。それは他の先進国でも変わらない。それでも彼らは生きていけるのである。これからそれが日常的になるだけの話しだろう。というより、日本もまたそういう世の中に戻るというだけの話しではないのか。
 求人情報誌の仕事をしていて良く耳にするのが「有効求人」である。求職と求人の倍率数もあるが、「適職」かどうか、も問題点とされる。例えば最近であればパートタイマーの短期化などが挙げられるが、求職数は多くても、求める人材が見つからない、または企業側の求人にあった人材がいても待遇面で折り合いがつかないなど、仕事と人材のリンクが上手く繋がっていないのが現状でもある。つまり「働きたい」のに「仕事がない」もまた、求職側、求人側、双方の力加減次第である程度は解消できそうな問題ではある。
 「コラム:Biz Plus」に見られるようなプロテスタンティズムに依る就労意識の回復は困難だろう。日本でも近世鎖国時代にそれ同様の現象はあったという見解もあるが、宗教的倫理観と、自己実現欲求に依った働きかけでは、現代日本の若者の労働意欲がそそられることはないだろう。「何故働かないのか」ではなく、「何故働かなければならないのか」を明確にしない限りは、この問題は解決しない。労働が国民の義務だから、では既に答えにならない状況なのである。
 僕は日本の就職という観念が未だに上手く捉えられない。通過儀礼化した就職活動もそうだが、その後に待ち受ける一般共有概念である「社会」というものが曖昧模糊としていて、就職=社会人というにはあまりにも稚拙な図式がそこにはある。僕は今まで学生だったし、働いている今でも根本は学生である。「社会人と学生」の差はそこには無い。それどころか、大学に属していた頃の学生時代の方が日々疲れ切っていた。労働力だけで計れば、学生時代の方が遥かに優っている。自営業育ちという環境もあるのかもしれないが、日々労働することと、日々学問をすることでは、僕の中では明らかに学問の方が労働力が上回るのだ。
 また前述のコラムに引用されたマズローの欲望段階説に挙げられた安全の欲求や親和の欲求は、現代社会での労働環境では満たされることはないだろう。僕自身のことを言えば、企業に就職している以上、いつかは企業は潰れるという心配の方が大きく、親和の欲求に至っては組織に属したとしても、それが依拠集団になることはなくそこに喜びを見い出すことはできない。ましてや認知欲求に至っては、スキルの有無が前提で就職しているので、それを満たすための就職ではない。つまりこの欲望段階説では、少なくとも僕の自己実現欲求に応える様な労働意識は芽生えないのである。
 非労働力人口の増加を嘆く前に、何を目的とした労働力なのかを明確にするべきだ。何よりも非労働者を批判し、労働者の優位性を保とうとすること自体もまた批判されるべきであり、働かなくても生きていける人たちが産まれる程の余剰経済力を認識することが先決である。また働くという行為そのものの本質が近代以降限定されている気がするのだが、その変化の有り様を見直すことも求められている時期ではなかろうか。