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最近は写真日記。

少女漫画を読む男の子達

 arctan 1=π/4 - 女性の「女性嫌悪」、少女漫画を読む男の子達より。

男性は少女漫画をどのように読んでいるのか、という問題だ。akio71さんの書くように、少女漫画のわかりやすい上澄みをすくって理解したつもりになっているに過ぎないのだろうか。

この問題については一概に答えを出すことはできないだろうが、大島弓子吉野朔実に関して言えば、彼女達の作品を好きな男性が多いのは、そのテーマが性別に関係なく普遍的なものだからじゃないだろうか。大島や吉野の作品では少女たちの「周囲からの疎外感」や「成熟忌避」が描かれているが、これらは男だろうと女だろうと、共感する人はするし、しない人はしないと思う。

 冒頭で引用されている文章(akio71さんの文章)はこちら。Hopeless Homeless - 吉田秋生への違和感より。

吉田秋生、吉野朔美(よしながふみもこのカテゴリに入るけど、ちょっとずれるから厳密には外します)ら、一般に「少女の心理を描ききった」なんて評される漫画家を、中学生当時、リアルタイムで読んでいた頃の印象は、どこまでも男性のほうを向いている作家、でしかなかった。男の人(男性批評家であったり、少女漫画好きサブカル知識人であったり=権威)に受け入れやすい物語や自我を作り続ける人たちだな、というもの。

吉野でいえば、正確な作品名は忘れたけど、主人公の少女が「同級生の女子は頭悪い。男の子といるほうが知的」とモノローグで語るシーンは「?」でしかなかった。中学生、高校生のとき、女子より精神年齢の高い男子なんて、学年に1人か2人もいればよかったですよ。吉田秋生の「吉祥天女」にしても「櫻の園」にしても、「あー男の人ってこういう【】つきの【女である自分への違和感】とか好きだよね。そういう方面に営業してんのか」という感想しかなかった。あまりに芝居がかっているし、あまりに(過度に)下世話すぎたし、あまりにわかりやすすぎた。

男性が理解できる論理的な組み立てをもった少女漫画、男性が理解したい範囲内の少女の内面を描いた漫画、というのが、吉田秋生櫻の園」そして吉野朔美への評。そして二人とも、まんまと男性批評家や、男の少女漫画読みに評価されるわけです。

 引用文中の吉野朔美の作品とは、「少年は荒野を目指す」だと思われるが、この作品は「月下の一群」の流れをくんでいる。端的にいえばそれは所謂サークルクラッシャーとしての女性をメインに据えた物語であるがために、「男性のほうを向いている」もしくは「?」という印象を受けやすいのかもしれない。例えば僕が始めて吉野朔美作品に触れたのは「いたいけな瞳」だったが、この作品自体、当時(高校2年)つき合っていた彼女に「良くわからないけれど、君は好きそうだから」と薦められたものだった。その年にそれまでの吉野作品を読み、また面白いと思ったものはその彼女にフィードバックしたが、やはり答えは「?」であった。
 吉野作品を前期、後期と大別した場合、「いたいけな瞳」を境にしてその傾向に変化が現れていると言えるだろう。その変換点から吉野作品に触れた身としては、個と個の関係性が彼らが依拠するコミュニティに変化を及ぼすことを捉えている前期作品より、個々の問題が直接的に彼らが関係しているコミュニティに影響を及ぼすこともなく、個と個の関係性が変化していく様を捉えている後期作品の方が僕は読み易かった。もちろん当時読んでいる時にはコミュニティもジェンダーにも無知だったわけだが、「群れの継続性」より「個の主体性」に興味を抱いていた時期だったために、そう感じたのだろう。要するにメインがコミュニティにあるのではなく、メインは個であり、個々の繋がりの連続性のみで関係を築いている点において好感を抱けたのだ。これはハチクロが男性に読まれる理由にも当てはまることだろう(個々の問題がコミュニティを介して解決されるわけではなく、各々で自問自答しそれがコミュニティにバックされる)。
 以前にも取り上げたことがあるが、漫画の性差はどこからくるのだろうか。よくよく考えてみれば初期少女漫画と呼ばれるような作品程、男性の認知度は上がる気がする。現在の方が細分化され、「知っている」と「知らない」が明確になっているのかもしれない。これは思いつきの話し。
 話を元に戻す。「男性は少女漫画をどのように読んでいるのか」という問いの裏側には、「女性が読むことによって少女漫画は、『少女漫画』になる」という概念が存在しているのではなかろうか。残念ながらそれは読み手のセックスに依るものではないと思われる。例えば僕が少女漫画を読み出した当時、クラスは女子30人、男子2人という構成だったが、当たり前ながらそれぞれの漫画の捉え方は多様であり、「少女漫画は読まないけれどジャンプとマガジンは読みます」という女性も多かった。要するに王道というものがなかった。現在でも女性ばかりの職場であるが、「デビルマン」は良くても「NANAはうざく」、「ベルセルク」や「無限の住人」は面白くても「ハチクロはうだうだ」だったり、「僕等がいた」とか「君に届け」は、「ダメ」。手塚治虫藤子不二雄は読んでいても、大島弓子に至っては名前も知らない場合も多い。もちろんその範囲は少女漫画に留まらず「ワンピース」や「Death note」に対しても「微妙」という判定である。多分遠藤浩輝鬼頭莫宏なんかはすぐに受け入れられるのだろう。つまり少女漫画を読み解けるのは『女性』だからなのではなく、ある程度訓練された人間でなければ、指摘される様な『上澄みをすくって理解したつもり』になる可能性は高いのである。
 また異性が描く漫画に登場する同性への嫌悪感と、少女漫画の文法を読めるか読めないかは別問題だろう。例えば僕の中の男性主観で少女漫画を読んだ時、問題になるのは「男性」が描けているかどうかに依る。具体例を出せば花より男子で描かれるF4の友情と呼ばれるものは気持ち悪いものでしかない。また男性友人などに少女漫画を薦めて、反応が出やすいのも少女漫画に描かれる「男性」に対してである。

「あー男の人ってこういう【】つきの【女である自分への違和感】とか好きだよね。そういう方面に営業してんのか」という感想しかなかった。あまりに芝居がかっているし、あまりに(過度に)下世話すぎたし、あまりにわかりやすすぎた。

 という感じになるのだ。単純に考えれば前述の個とコミュニティに関係しており、要するに少女漫画内で描かれる男性的行為や男性の友情には嫌悪感を示しやすい。
 上の引用で気になったのは、男性読者が少女漫画内のメインキャラ(女性)だけで作品を評価しているという感覚を受けるのだが、これもキャラ萌えをするか物語読みをするかであって、読み手によって別れるところである。その分類があって始めてセックスと漫画内でのジェンダーのカテゴライズが可能になるのだろう。