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最近は写真日記。

お疲れ2006

 2006年が終わろうとしている。今年は僕にとって正に激動の1年だった。日本に帰国し、結婚し子供が産まれた。環境もがらりと変わり新天地での生活となり、社会人1年目でもあった。相変わらず出会いと別れがあり、自分のコミュニティが淘汰された。何よりも依拠集団が「自分」の家族に移行したことは大きく、今までブラインドになっていたものが見えつつある。
 先日id:KEN_NAITO(けんけん)に会った。「これから先(の人生)どうすんのよ?」なんて野暮な質問もなく、淡々とそれぞれのスケジュールを確認しあい、いつもの様にメイド喫茶でメイドを茶化して別れた。同い年の彼が博士に成ろうとしている。今だに僕は学士のままで、しかもアカデミックな世界から今は距離を置いている。その今だけを見て「もう止めたんだ」という人もいれば「学問なんて君には無理なんだから丁度良いんじゃない」と舌を出している人間も多い様だ。それでも「で、エトルリアはどう?」と以前同様に僕に接する人間が僕の周囲には残っている。否、最初からそういう人間しかいなかったはずなのに、いつの間にか人間付き合いがなあなあになっていた。そういうブレを確認して原点の延長線上に修正できたことは収穫だった。
 学問とビジネスの差異も現実的に再確認できた。就職と社会人という概念も何となく感じられたが、結局のところ自分の想像の域をオーバーする様な現実はそこには無かった。そういう意味ではビジネスは現実的(可視的)、学問は未知的(不可視的)という実態を体感した。そういった可視的事物を基に動く状態を一般的に社会と呼ぶのだろう。換言すればコミュニケーションの可・不可能性が、社会と世界のボーダーという事実を認識しただけの話しである。
 自分のことがままならない内に人の親になるとは、以前の僕からすれば予想外の出来事ではある。今だったら、人の親になることもまた、自分のことを成し遂げるためのスパイスとして必要な場面であるといえる。これは結婚も含めて。
 社会人としてはどうだろうか。「大学に通ってる頃に比べたらめちゃくちゃ楽そうだよね」イタリアでの僕の学生生活を知る人が、今の僕の社会人ぶりを見てそういった。語弊があるかもしれないが、僕にとっては学生でいるより、社会人でいる方が楽である。会社という共同体のメリットなのかもしれないが、労働が分担される分、責任も分担される。ミスをしたところで最悪会社を辞めれば良いだけだ。法に触れる様なことをしていなければ再就職の可能性も残されている。学問ではそうはいかない。ある対象に対して思考しているのが唯一1人であれば、作業の分担は可能であっても責任の分担は難しい。1つのミスが命取りになりえるのだ。つまり再帰の可能性が社会人にとって圧倒的に低い。
 そういう意味では他人のふんどしで相撲を取ることが可能な社会人の方が気が楽だ。責任は会社が取ってくれる。仕事も会社が用意してくれ、その分担もしてくれる。それが会社の存在意義だと感じる。労働者というのは守られているとわかった。何も考えずルーチンをこなす時間は脳のクールダウンにはもってこいなのだろう。労働時間外での集中力が向上した気がする。労働時間と私生活がしっかり区切られているのは正にゲーム的だと思うが、深い追求は止めようと思う。
 以上のことを変化とみるのか進化とみるのか、はたまた後退、もしくは無力化とみるのか、人それぞれの意見があるだろう。それは僕にはわからないことだ。それぞれの中にいる「僕」に左右されることだから。