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最近は写真日記。

穏健な宗教と科学

 good2ndの日記 - 穏健な宗教より。

ニセ科学がらみで「穏健な宗教と科学は共存できる」というような言い方がされてました。でその、「科学と共存できる穏健な宗教」ってどんなんだろう、というのがどうもよくわからない。「穏健」というのが、単に狂信的でないとか暴力的でないとか反社会的でない、というのであれば、まあ日本にある大抵の宗教は穏健ということになるんでしょうが、「科学と共存」というのがどうも。

 以前は僕も宗教と科学が相反するものだと考えていたが、
 理系と文系:Ver.2.0を書いたあたりからは、双方の原理は同じものであり、成立するためにそれぞれが必要不可欠であったと考えている。根本部分として、近代科学を信じるのか、宗教を信じるのかの差異になってしまうのだが、今さら近代化学至上主義に対して言及する気はない。単に指摘できる点として、「穏健な科学と宗教は共存できる」と置換できることがあげられる。つまり排他的一神教の様な排他的科学であっては、多様性は認められずにその客観性を失うことになる。つまりはニセ科学同様に盲信的になる可能性がある。
 科学、ここでは自然科学を念頭に宗教と対比させているのだろうが、その自然科学者達のベースには宗教があったことは見逃せない。多神教世界でのギリシア哲学や、一神教世界でのイスラム錬金術など、西洋近代科学成立に欠かせないものは宗教と共存していた背景がある。また大学の成立にしても、神学がメジャーの一部であり、日本においても寺院は研究機関としての役割も担っていた。また近代科学の発端である西洋においては科学者であってもそれぞれに信仰をもっている場合が多い。例を挙げれば切りがないのだが、科学の始まりからして西洋においては科学と宗教は共存しており、科学が宗教の存在を否定することは考えられないだろう。要するに信仰の自由を認めることも科学の多様性という見識があるのではなかろうか。
 問題点はやはり日本人の宗教観ではなかろうか。今では形骸化し通過儀礼的な行為が多いが、元々は宗教を起源にしているものが多い日本文化。それらを無意識に行いながらも「私は無宗教です」と言い、「科学を信じます」では矛盾だらけである。どちらかといえばその無意識を客観するものを担うのが科学であるのに、主体的に信じる対象として科学が用いられる。戦後の新興宗教では信仰者の救済をメインに捉えず、教団側の利益を追従するが為に反社会的に成りやすい。これは例えば教育勅語に見られた様な、自己肯定のための排他が基にある所為だろう。
 要するに「共存」できるかできないか、ではなく、宗教あってこその科学であり、科学が成立したからこそ宗教はその存在意義を確立したともいえるだろう。以下、駄文ではあるが以前書いた神さまなんて信じていない僕らのためにから引用して終わりたい。

 主観的であることは非科学的である、とすれば歴史学どころか真に科学的なことなんてこの世の中にありゃしないんだ。観察者にはいつだって主観が宿る。そしてまた、観察者は観察対象に影響を与え、それまであったあるがままの形を変えてしまったり、観察者のフィルターによって情報は置換される。それが例え数値化という名の近代科学的幻想であっても、数字は結局人間の範疇を超えることはない。つまり数字なんてものは人間が事物を読み解くための方法であって、変換されてしまった時点で結局それはそこまでの意味しかないんだ。何が言いたいかって、要するにこうやって言語化している段階でこぼれ落ちてしまう、もしくは言語化することすらも不可能な事物の色とか匂いとか感触とか姿形とか、五官で感じるべき事物は、結局は削ぎ落されて本当に伝えたいことなんて伝わらない。ましてや五官フレームで感じられる情報量には限界があり過ぎる。言語的転回もまた近代科学の基礎だけれど、それに縛られ過ぎて見落としてるものがあるんだろう。