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最近は写真日記。

人を見限るとき:サムライチャンプルー:暗夜行路 其之弐:そしてハチミツとクローバー

 カウボーイビバップで監督だった渡辺信一郎が手がけるサムライチャンプルー菅野よう子が音楽を担当していないのは残念だが、作品を観ればこれは菅野よう子の音楽ではないと思い直せる。それに僕の好きなアーティスト、シャカゾンビShakkazombieのプロデューサーであるTSUTCHIEが参加しているのも面白い。カウボーイビバップのテレビ版最終回ではShakkazombieの空を取り戻した日が挿入歌で使われていたので、この頃からTSUTCHIEと渡辺信一郎の間には関係があったのだろう。
 僕は閉じた人間である、ということは以前にも書いた。「選ばれた状況」であれば嫌でも社交的に振る舞うが、「選べる状況」であれば積極的に選んでいく。もちろんこれは場の話し*1である。選べる状況においては、「君ほど、他人に対して閉じてる人間を観た事がない。ピンポイントで来ないと、本当に難しいよね」と言われるくらいクローズである。
 それでも2人ほど幼なじみがいる。1人は今は米国に。1人は日本で家庭を築いている。母親のお腹に居る頃からの幼なじみで、時間があればいつも一緒に遊んでいた。日本に居る彼ともつい先日会ったが、話すことといったらゲームや漫画、アニメ、PCの話しばかり。それでもコミュニケーションが成り立ってしまうのは歴史というバックグラウンドがあるからであって、その文脈を読んでお互いにどういう言葉を発しているか読み取れるのだ。最近ではこんなゲームや、こんな漫画を読んでいる。という話しをすれば、お互いにどういう心境の変化があるのか、細かい話しをしなくても伝わることがある。
 それが可能なのはお互いに幼なじみという歴史を大切にしているからだ。彼らは始点の状態では代替可能な人間だったのかもしれない。しかし現在まで継続しているその関係性において、彼らはオリジナルへと変化しオルタナティブの必要性がない。もちろん歴史が全てをそうさせるのではない。どちらかが歴史を軽んじれば、その関係性は成立しない。どちらかが途中で投げ出してしまっても成立しない。お互いにお互いを必要だと思わない限り、その関係性は維持できないのだ。
 暗夜行路 其之弐において、ムゲンは幼なじみの少女であるコザを見限る。コザはムゲンに好意を寄せているフリをしながら、自分の保身のために全てを欺き、他人を自分の逃げ道に使ったからだ。ムゲンは殺すことも、何かを言うこともなく、ただ彼女の横を通り過ぎるだけ。観る事さえしないのだ。
 僕はコザの様な人間を「自分に純粋な人間、特に保身に長けた人間」と称しているのだが、現実世界においても様々な場所で出会う。僕もある種の「自分に純粋な人間」なのだが、それを認めているし、自分の保身のために他人を使うことに嫌悪感を抱く。他人に依存することも好きな行為ではない。
 どれだけお互いに歴史があっても、その人を見限る時がある。僕が文脈を重視する人間であるからかもしれないが、「過去に何度もお互いの間で行われたコミュニケーション」を蔑ろにされたり、「過去におかした失敗が、現実面において幾度となく繰り返され、その度に注意を必要とされる」という場合においては、見切るしかなくなる。1、2度くらいの関係性の停滞ならばわかるが、それが繰り返されれば現在に追いつくことさえできなくなる。それでもギブアンドテイクが可能ならば問題はないが、同じことの繰り返しで新たな歴史を築けない場合は諦めるしかないのだろう。新しい関係性を探した方が早い場合もある。ムゲンの様に、何も言わず、何も期待せず、要するに居ない存在として扱うのが作法なのかもしれない。
 ハチミツとクローバーの中に絶妙と言える表現がある。

 7月の台風で1番背の高いシソが一本、ポッキリと折れてしまった。母はそれを見て言った。
「それはもう元には戻らないから、折れた所からちぎりなさい。そうすれば新しい枝がのびて、また新しい葉がきれいに茂ってくるから」
ーと。
〜略〜
ー数日たってベランダに出ると、折れたシソが自分の重さに耐えかねて、土の上でのたうっていた。母さんの言うとおりだった。これは折れた所でちぎるしかなかった。そこでちゃんと区切りをつけて、新しく枝を伸ばすより他に無かったのだ。それでもまだ私は迷ってしまうのだ。どうしようもなく。

羽海野チカハチミツとクローバー」4巻
ハチミツとクローバー (4) (クイーンズコミックス―ヤングユー)

*1:「選ばれた状況」は学校や会社など、自分の意思とは別に人間の集団が存在する場所。逆に「選べる状況」とはプライベートなど、自分の意思で居たい人間を選ぶことが可能な場所。assemblageとcommunityと言えば分かりやすいかもしれない