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最近は写真日記。

僕にかかっているフィルター

 僕の中には「男」を計る一定のメーターがあった。これは多分育った環境にかなり依存している。「[雑記]自分の中の「フツーのヒト」のイメージ」id:ain_ed:20050215でも書いたが、自営業育ち故に、人に仕えるという感覚が抜けている。また両親共にアルコールをまるで飲まない人なので、「あの上司は」「会社はさぁ」などという会話を聞くことも無く育った。逆に聞かされたことと言えば、「物を知らぬ人間に売るものは無い」という事で、「売れなくて嫌になる」という愚痴を聞かされたことも無い。つまり「お客様は神様だ」という考えさえも、自営業ながら植え付けられた試しがない。
 そういった環境で育ったために、駅前とかでグデングデンに酔っ払いながら、「あの馬鹿上司」「仕事なんてやってられっかよ」なんて愚痴ってる人間を見ると、耐性が無いぶん、酷く不快になる。1番不快に成るのが「飲んでないとやってられっか」という言葉である。「嫌ならやめろ」というのが親の口癖であった。また「やめて路頭に迷うか迷わないかは、自分次第だ」とも言われていた。そういったすり込みが強いので、「飲んでないとやってられ」無いようなものは、やらない様になってしまった。
 僕の「男」を計るメーターの根本はそこにある。中学の頃には「アルコールや煙草が無いと生きていけない」という人間は、僕にとっては興味が湧かない対象になり、高校の頃には「酒や煙草やって、セックスして、もっと気持ちよくなりたくて、ハッパ吸って。自分の中に無い快楽に依存する人間」は、正に忌むべき対象に成っていたと思う。
 これがいつの間にか「その人間がどれだけの快楽を知っているか」に変わり、それが「男」を計るメーターと成った。簡単に言えば、酒や煙草があれば生きていける様な人生を送れるのであれば、そこまでの人生だろうし、セックスできれば良いという人生であれば、セックスをすれば良いだけだ。麻薬にしても海外に行けばいくらでも手に入るのだから、それに溺れれば良い。酒も煙草もセックスも麻薬も、お金さえあれば誰しもが簡単に手に入るものだ。そしてお金があれば、「今以上に」と欲を出し、それ以上の快楽を求めることになるのだろう。物欲で人生を満たせられるのであれば、お金さえあれば結局の所ほとんど解決できるのだ。
 ではこの「男」を計るメーターが反応する時は、どういう時か。答えは精神的マスターベーションがどれだけ上手いかである。学問は良い例だろう。学問を好き好んで続けていく人間は、好き嫌いかでは無くて、多分に精神的快楽を得られるかどうかを重視していると思う。それは楽しい、面白いだったり、単純に気持ち良いでも良い。森博嗣は「その瞬間に、世界で自分を覗いて、誰一人として同じことを考えていない、それが面白くて研究を続ける」と言っていたが、瞬間でも世界に自分がオリジナルで居ると感じられるために、学問を続けてくという思考には、やはりメーターが反応する。現実世界において経済能力が高い低いを別にして、「僕じゃなければいけない訳ではないけれど、僕がやらなければ誰もやらないと思うから」という気持ちで学問を楽しめる人間には同じくメーターが反応する。
 簡単に言えばセックスでしか快楽を感じない人間には、僕は多分魅力を感じていない。セックスは2人以上居なければできない行為だ。これはもちろん例であって、アルコールや煙草、麻薬など、自分の中にないモノに頼らなければいけない状態を指している。逆にマスターベーションで何処までもイケる人間は、興味をそそるのだ。どちらもモノを使うことはできるが、モノが無ければできない様ではオリジナルにはほど遠い。
 僕はこれをずっと「男」を計るメーターだと思っていた。しかし高校や大学などで彼女ができる時、やはりそのメーターが反応していたのだ。生物学的な男女と捉えていたが、女性にも反応しているので違う。かといって社会的な性かと問われると、これはわからなかった。自分の恋人に対しても、物欲に始終しない様な人生を望んでしまっていたのは、別に「男」を求めていたわけではないと思う。そう考えると社会的な性はあまり関係が無さそうである。
 よくよく考えて見ると、僕の周囲の人間は「マスターベーション好き」が揃いに揃っている。男女問わずである。つまりそのラインを越えないことには、興味も抱けないし、恋心も抱けない様だ。男女とそれ以外に区別されているらしい。今まで「男」を計るメーターと考えていたものは、結局の所、そういう風に機能していた様だ。僕にかかっているフィルターはかなり根深い気がする。