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最近は写真日記。

繋がりと関係と

 「人間関係って難しいよね」という言葉を耳にした。変な表現だが、隣で話しをしている友人達の会話が耳に入ったのだ。「人間社会で生きている限り、無理だよね。孤島にでも行かないと。何処に行っても、やっぱり人間関係は難しい」という。本当にそうだろうか。
 プラネテス、ハチマキの「ざまーみろ、無理やり関係してやった」という言葉を思い出す。裏を返せば、「無理やり」でないと関係できない関係があるということだ。つまり関係したくなければ、それを選択することもできるのである。
 僕は以前にも「一般的に選択された状況は、日本では中学校までだ。それ以降は自分で選択可能な人生である。」id:ain_ed:20041009と書いている。義務教育が終われば、高校に行く理由が無ければ別に行かなくても良い。大学に行かなくてはいけない訳ではない。仕事がしたいのであれば、その仕事に就けるような道を選ぶべきである。学歴が必要な仕事であれば、それが理由になる。スキルが必要になれば、それを鍛えるしかない。何をするにしても、選択の自由はある。
 また自分の選択した状況に依って、場が決められる。学校であったり職場であったり。「人間社会で生きている限り」は、この場が人間に依って構成され、その場に参加しなければ人は生活していけない、つまりはその場に参加するためには「必然的に人間関係を築かなければ」成らないという意味だろう。
 僕にとっての人間関係はコミュニティの意味合いが強い。例えば場を選択した時に、そこにその場を構成する群集がいる。その群集はassemblageであって、非意識的な集まりである。コミュニケーションを取れる意識的な集まりがcommunityである。
 具体的な例をあげてみよう。僕は考古学を学ぶために大学に入った。大学というのが「場」になる。その中には様々な非意識的集団:assemblagがあって、その中の研究室:communityに「自分の意思で」入る。が、研究室に入ってみれば、今度はそこが「場」になって、非・意識的な集団があり、結局自分とコミュニケーションが取れるコミュニティを意識的に築くことになる。それが僕にとっての人間関係である。
 仕事をしていれば他のコミュニティに参加しなければならないだろうが、それは仕事であって、そこに私情を挟むから面倒になるのである。コミュニケーションを求めずに仕事をこなせば良いだけの話しである。「「就職」とは自分のスキルとアビリティ、つまりは技能を生かして仕事をし生活することを言う。手に職をつけるのであって、自分の居場所を求めることではない。」ということになる。
 日常的、私的に接するコミュニティは、自分のコミュニケーション能力範囲内で作り上げるものである。つまりコミュニケーションが取れるか取れないか、に依って選択されるべきだ。もちろんここでのコミュニケーションは、「日本語を話す」という段階のものではなく、「自分の言葉」が伝わるか伝わらないかの範囲である。
 つまり「人間関係は難しい」というのは、結局のところ「その人間が好き好んで関係している」ものであり、また「その関係は自分のコミュニケーション能力に依って選択される」ものである。「人間関係が難しい」のではなくて、自分で難しくしているだけなのだ。
 関係はいつでも切れる。関係したくなければ、関係しなければ良い。現在ある自分のコミュニティに満足し切れていないのは、自分のコミュニケーション能力の低さの現れでもある。能力が高ければ、それ相応のコミュニティを構築することが可能である。要するに「人間社会〜人間関係は難しい」という流れは、結局の所自己選択に依って、自ら選んだ結果なのだ。
 僕は人と人との繋がりを大事に思う。これは人間関係とは違うものだ。例えば今僕が此処に居られるのは、両親が僕を産んでくれて、その両親をそのまた両親が産んでくれた結果である。人に出会えるのは、その人の両親が産んでくれたからだ。今僕らが地球で生きて居られるのは、過去の人間が地球を破壊しなかったからだ。僕らが食べている果物は、農家の人々が子供を育てる様に大切に育ててくれたものだ。僕らが生活できるのは、何処かの誰かと見えない所で繋がっているからだ。万物において人は繋がっている。僕にとっての繋がりは、歴史という意味合いが強い。つまり繋がりは切っても切れないものである。
 人間関係は自分次第で構築できる。繋がりは人の歴史がそれを支えてくれる。繋がりは難しくも易しくも無い。そこには繋がっているという事実が存在するだけである。「人間関係は難しい」という言葉を聞く度に、僕はそういった事実を再確認するのだ。