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最近は写真日記。

恋ってどこでするもの?

 僕が恋愛に関してウダウダ言うので「ain_edは頭で考えすぎ。恋って頭じゃなくて、体でするものじゃない?」と言われることがしばしば。テーマは恋である。壮大なテーマである。それ以上に僕にとっては意味不明なのである。
 先日も「頭で考えられなくなるものが恋だと思いますが」と言われる。つまり「どうしようも無く好きで、考えてる暇が無いくらいに好き」なんだそうだ。僕は以前にも、「女は子宮で恋をするものなのよ」と言われたことがあるが、だとしたら男は何処で恋をするのだろうか。
 「恋は体でするもの」という女性は、突き詰めた質問をすると結局の所、肉体的な恋をしている。恋した相手に触れられる距離、とでも言うのだろうか。質問をしたそれぞれの女性の特徴としては、限られたコミュニティ内において必ずと言って良いほど恋をしていることである。例えば無人島に男子3人、女子3人が居た場合、その中にタイプの異性が居なくても結果的に恋をしている。恋ができるのである。これは極端な例だが、肉体的な恋とは動物本能としての恋と考えることができるだろう。だからこその「恋は体でするもの」なのだろう。「子宮で恋をする」というのも、正に本能的である。
 僕の場合「おっぱいが無い人とは無理です」と言っているが、そのコミュニティ内に自分が一緒に居たいと思える異性で無いと、絶対に駄目なのである。つまりそのコミュニティ内に「おっぱい」が無ければ、僕は恋をすることができない。「まぁ、これくらいなら」なんて妥協はできないのだ*1。いつも「人を受け入れるキャパが狭い」と指摘されるが、時間は有限なので、自分が一緒に居たいと思える人にできる限り出会いたいのである。
 例えば演出されまくりの「あいのり」。もし僕があそこに居たら、脚本上の恋はあっても、自分が恋することはあり得そうもない。あそこまで隔離されたコミュニティ内で、「可愛いかも[しれない]」でカップリングされる恋は、僕には興味が無い。生理的・本能的にヤリタイと思うことはあっても、「恋した」とは言わないだろう。
 僕は自分の感情を信じているので、「一緒に居たい」と思える人とは一緒に居る。ただその際、その感情をできる限り言語化する。何故一緒に居たいのか。どうして会いたいのか。何故もっと近くに行きたいと思うのか。結局その中心にあるものを言語で表現することは不可能なのだが、本能的であるだけなのか、それとも対象をしっかり認識しているのか、というバランスは重要だと感じる。例えば冷静と情熱のあいだ、の様なものである。感情や体だけではバランスが悪い。かと言って頭だけで妄想できる恋では、いわゆる恋に恋する状態に陥ってしまう。
 結局の所「お前は何処で恋をするんだ?」と聞かれたら、「おっぱい」と言わざるを得ない。というのは半分本気で、本能と理性のあいだ、もしくは僕と異性のあいだの関係のバランスを取ることこそが恋だと感じている。「恋は体でするもの」と言われると「エゴだよ、それは!」と言いたくなる。かといって、僕が「一緒に居たい」と思う感情さえも、本能に支配されているのは明らかなので、「頭で考える恋」をいつも話すことになる。すると「何、ウダウダ言ってんの」となるのである。
 エイプリル・フールなだけに、こういうネタもありだろう。本当は、日本帰国を目前に控えてふられてしまった男子と、告白したまま何の反応も無く待たされ続ける男子と話していて、女性陣とは明らかに視点が違うな、と感じたのでした。恋ってどこでしますか?

*1:もちろん「おっぱい」は比喩で、「こういう人でないと駄目」という意味ではない