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最近は写真日記。

「世界が自分を中心にして動くと思うな!シャア!!:」レコア・ロンド

 先日のコメント欄でkojiさんからレコアさんの名前が出たので、連日ガンダムネタを。「レコアさんがなぜシロッコのもとに行ったのか, 子供の僕にはいまだに理解できません」というネタの前フリを貰っているので、僕から見たレコアさんを語ってみよう。いやネタってのは重々承知しています。

私は元々主義者ではないわ。私は戦争でなくしてしまった私の感情の行き所を探して、生きてたいたの。

今の私は女として、とても充足しているの。安定しているのよ。

世の中には男と女しかいないのよ。それは思想とか信念とか別の物だわ。アーガマの男たちは自分のことしか考えていなかったわ。

 シロッコのもとに行ってからのレコアの言葉である。作中のレコアというキャラクターに関しては「レコアが求めたもの」にてほぼ語り尽くされているので、それ以外に僕が感じたことを。
 そういった視点でレコアを見て、思い浮かぶのはクェス・パラヤフレイ・アルスターである。彼女たちも、同様に自分の居場所を求めて主人公側から、相対する側へと導かれ、そして死ぬ。クェスの場合はシャアに父性を見たというのもあるが、「嫌な女!お前がいなければ、アムロの所にいられたのに!」という台詞からもレコアに近いのがわかる。フレイの場合、まるで状況が違うのだが、キャラの根本にあるものが同じなのだ。レコアやクェスには能力があり、その力を以てして社会的に居場所を作ることができる。フレイの場合、能力は無いが、自分の居場所を作ることには長けている。キラに守られ、キラを甘やかすという相互関係に依って自分の居場所を確保するが、そこには主義や思想は何も無い。それが能力だとも言えるのだろう。
 つまりレコアには能力と社会的な居場所があり、クェスには能力がある。フレイには能力も社会的な居場所も無い。3人に共通しているのは本質的に、主義や思想で自分の居場所を求めるタイプの女性ではないことである。

あたしをただの女として扱ってくれたのはシロッコ1人だった。

 エゥーゴでは少尉として認められ、カミーユには母性を求められる。女として見て欲しかったクワトロからは見向きもされない。能力にしか興味のないシャアにとっては、駒の1つでしか無かったのだ。シロッコもまたシャアと同様にレコアを「駒の1つ」と考えていたのだろうが、シャアほどあからさまではなく、「女」としてのレコアを見抜いている。要するにレコアにとっての居場所は、能力でも社会的でもなく「女」としての居場所を欲していたのである。この点において、クェスとフレイとは異なっている。クェスは能力に依って居場所を見つけ、女として求められる以前にある程度の安全欲求が満たされている。フレイの場合は、居場所を見つけるために女であろうとしていた。フレイの求める居場所は、そういう意味ではレコアとは相反しているだろう。
 僕が面白いと感じた点は、ガンダムシリーズでは初めてZが女性の視点を取り入れていることである。アムロにしてもシャアにしても、思想、主義ばかりで超越的な自己実現欲求に取りつかれている。平和とか理想のために戦う男ばかりで、個人的欲求には見向きもしない。
 ファーストガンダムや男性向け漫画・アニメを見てきた男性視聴者には分かり易いだろう。しかし当時Zガンダムから見始めた女性視聴者には、そういった文脈が抜けている可能性が高い。そういった女性視聴者の気持ちを代弁したのがレコア・ロンドだったのではないか。
 例えばSEEDやDESTINY。物語にはそれほど関係なく、キラやアスランというキャラに萌えることができる。格好良かったり、可愛ければそれで良いのだ。キラやアスランが何の為に戦っているかより、恋愛問題に目がいくのは、そういった背景があるからだろう。
 つまりザビ家とかジオンとか、ニュータイプとか地球とか重力とか関係ないのだ。テレビの前で弟、もしくは兄と一緒に見ていた姉、妹がZを見ながら、「ねぇ、何でこの人たちはカップルに成らないの?は?何よニュータイプって。男ってそういうわけのわかんないものが好きよねぇ。もっと恋とか愛とか無いの?この金髪グラサンは何で女心に気づかないかなぁ。私だったら、さっさと次行くけれどね」なんて言っていたに違いない。女性キャラを多く登場させたのは良いが、女性的な視点が欠けていた。主義思想ばかりのアニメに成り過ぎて、男性的過ぎたのではなかろうか。
 そういう意味で「世界が自分を中心にして動くと思うな!男共よ!!」と、レコア・ロンドが画面越しに叫んでいるように思えて成らないのだ。