apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

幸せを感じるとは

MORI LOG ACADEMYより。

この頃、愚痴が少なくなったと自覚している。たとえば、昔の日記には、毎日ささいな愚痴を書いていたのではないか。最近は身近に不満がほとんどない。つまり、愚痴をこぼすような対象からは僕が遠ざかった、ということである。防御をした結果だ。素敵である。もっともっと引き籠もりたい。
 昨日の夜だったか、ゲートまで郵便を取りにいった。いつも、パスカルがついてくる。僕が歩く3mくらい前を、黒い毛のかたまりがちょこちょこと歩いているのだが、これはなかなかの幸せだな、と感じた。小さなことに腹を立てないようにしましょう。
 人間は、どんどん自分の望む環境を身近に作り上げる。誰でもが多かれ少なかれこれをする。その人が、これが豊かさだ、というものに近づき、これは惨めだ、と思うものから遠ざかる。ほかの人から見ると、あれは何だ?と感じられるようなことでも、また、本人が自分は不幸だ、と愚痴をこぼしていても、結局はそれが望む状況であることがほとんど。細かい愚痴をこぼすことが贅沢だと思っていれば、愚痴をこぼし続けるだろう。予期せぬ外的要因による不幸ももちろんあって、それが唯一の例外であるけれど、そこからも這い上がってくるのが人間である。

 僕の場合は、「これが豊かさだ」と思っていた間逆のものを開いた。結果的に豊かになれたと思うが、「あれは何だ?」と思う人もいるのだろう。確かに「毒」が無くなったとは言われる。面白味がなくなったと捉えても良いが、その「毒」がなくなったことによって、逆に面白くなった、と感じる人もいるのでどちらでも構わないことだ。

細かい愚痴をこぼすことが贅沢だと思っていれば、愚痴をこぼし続けるだろう。

 この場合の愚痴は代替可能だ。「他人の批判」でも何でも良い。愚痴をこぼしながら、ストレスを発散する人もいれば、結果的に自己肯定や自己防御をする人もいる。同様に愚痴をこばしながら幸せを感じたりもするのだろう。そしてこう書いていること自体愚痴ともいえる。ならば口を噤もうかとも思う。
 わかる人にわかれば良い、ではなく、自分さえわかれば良いと思う。