apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

apoPTOSIS:mod.B勝手にベストヒット2008

 今回はダイジェストつき。おまけに沢山。

スタンドアロンコンプレックスであった集まりは、トップダウン的チームの傾向を持つようになった。正確にはそれまでのスタンドアロンと、後に入ってきたチーム的集まりの混合といったところだろうか。要するに後発のチーム的人員は、僕じゃなくてもスタンドアロンの人間に指示を待つ状態になることが多いのである。


そのゴム的スリッパが匂っている気がして死にたくなる。実際、匂い嗅いでみたら、ただゴム臭いだけなんだけれど、トイレでスリッパの匂い嗅いでる自分がまたイヤになって帰りたくなった。

追記:未だにその臭いスリッパ履いてます。


僕にはまだ知りたいものがある。見たいものがある。そして見つけたいものがある。その1点こそが僕の特異点足り得る。

「主体的に動きましょう」と注意された時の動きは本来的な主体性を失う事に他ならない。

彼らもきっと怖いのだ。文化や国籍が違い、自分達の常識やマナーが通じない相手にどう接して良いのかわからないのだろう。壁の内側にいるのも外側にいるのも、同じ人間である。違うのは文化的背景である。ルールを守るにも意味が伝わらなければただの文字の羅列である。例えばそれは同じ神を信じていても、作法が違うだけでいがみ合う様な、些細な、それでいて根が深い差異である。

消費社会は労働力でさえファーストフード化してしまう。ファーストフードばかり食べ続けたら人はどうなるのだろうか。そういうデータがあるのかわからないが、早死にという言葉が似合いそうな食生活ではある。

追記:で、やっぱり体調不良を起こした日本。

言う成ればSEXは前戯が始まる前から既に前戯が始まっているとも言える。つまりそのプレ前戯で躓くと、濡れないとか勃起しないとか中折れとかイヶないとかに影響するのだろう。

当の腐女子に「結婚の予定は?」と失礼な質問を投げてみた。「来年の予定です」と即答されたので、「あ、もう決まっているんですね!おめでとうございます」と拍手をしてみた。周囲のスタッフもつられて「おめでとうございます」と拍手をしていた。「来年だともう式場とか考えてるんですね?」とつっこむと、「ええ…、でも相手はまだ見つかってないんですけれど…」と呟いた。

追記:来年から彼女の勤務地は変わります。同じ会社、同じ部署ですが。おまけに本当に来年結婚しそうだ。

大切なのはその「付き合う」という行為の中で、それらの言葉の本質、もしくは意味の相互理解を得ていく事にある。関係性を表現する言葉は、言葉に依ってその関係性が規定されるわけではなく、関係性に依って言葉が体現されるべきである。要するに幻想が先行している以上、恋に恋する状態で完結してしまっているのだ。

そして何よりも本質的な問題として、学問を金もうけの道具としてしか考えられない日本は、危機的状況にあると考えられる。幻影随想に分析される現実には、学問を続ける事が経済難民の入口である、と示されている。学問を蔑ろにしては未来はない。学ぶ者から搾取しようとする考えこそが、既に未来が無さそうだが、アカデミアだけは学ぶ意欲のある人間に対して平等に、その機会を与えられる場所であるべきである。

要するに日本語においては肯定語は「はい」で統一することができるが、否定語に関しては「いいえ」では統一できず、その度に返答を変えなければならない。結果的に「いいえ」という言葉の重要度が下がり、他言語(ここでは英語かイタリア語)を習得した時、Noという言葉の重要性が不明確になってしまうのではないだろうか。つまり「いいえ」と名言しなくても、他の言葉で代替できる、という思考が、最終的にNoという言葉への抵抗を生み出す要因になるのではなかろうか。

ある意味バスケ部はまとまっていたのかもしれない。甘っちょろい友情論を持ち出す人間は未だに1人もいない。適度な距離を保ち、僕らは繋がっているのだろう。無関心と言う程、無関心でもなく。友達や仲間という様な仲でもない。僕は未だに仲間という言葉や友情という言葉に嘘臭さを感じてしまうのだ。だからこそ、その関係性に居心地の良さを感じているのだろう。バスケが好きだ、という志しだけで僕らは繋がっていた様なものなのだから。

反面セーフティネットを充実しなければ格差は拡大する。資本主義的、経済右翼的に考えれば格差が生まれる事が必然であるし、社会主義的、経済左翼的に格差是正の為のセーフティネットを用意するのが妥当でもある。下手に雇用流動性を煽れば格差が広がり、格差を是正しようとすれば雇用流動性が低くなる。その責任の所在を自己に求めるのか、国に求めるのか、企業に求めるのかで、また問題は転がりそうである。

追記:で、結局国に求めたのね。

人間を選択できる程に僕は身の程知らずでもないし、足跡を気にしながら文章を書く様な閉塞感が気に入らないから、ブログを書いているのだ。

それでも相変わらずアカデミア社会でのサバイブは、ビジネスマン社会のそれとは比べものにならないほど困難だと考えている。なぜならビジネスマン社会にはジョーカーがある。平社員からいきなり社長になれる切り札がある。起業できる、という選択肢はやはりビジネスマン社会では最強の切り札だろう。言うまでもないが学生からいきなり教授には成れない。そこにジョーカーはない。その遊びの無さが、アカデミア社会での生存率を下げる原因でもある。

僕の中で「エリート」と呼ばれる人には道が開いている。もしくは、エリートであるが故に、その名にふさわしいものが勝手についてくる。挫折をしてはい上がれる人間は秀才だと思う。が、挫折すら知らずに人生を終われる人間を僕はエリートだと思う。エリートだから高学歴で、エリートだから高学歴を売りにすることなく、僕が一生かかってもたどり着けない様な場所を悠々自適に生きているのだ。僕にとっては、僕のコンプレックスの対象となる学歴エリートとはそういった人たちを指す。

「とにかく仕事は考えて下さい。でも何よりも家族が凄い安定しているんです。本当に」

「結婚するか、しないか」という迷いは、結局のところ「結婚」という抽象を言い訳にした自分の心の迷いなのだろうから。
 お金がなくても結婚はできる。無職でも。学生でも。三十路近くまで就職経験がなくても、今では2人の子供を育てている。裏を返せば、結婚なんてそんなものでしかないのだ。制度的なものだ、と批判することは容易く、実行に移すことは躊躇しやすい。何より子育てが始まってしまえばそんなことは些事以外の何ものでもないのだから。

結果的に新車は70万を超える値引き。新古車は10万を超える値引き、という結果に終わった。新古車の内容を新車で見積もると、税金の内訳が若干変化するものの、360万弱(税金を引くと345万程度)で、差額はおよそ125万となった。

追記:一ヶ月点検とリコール点検、走行距離はもう少しで5,000km。

また今回コミュニケーション力、というものの存在性をある程度実感できた。それは力(パワー)ではなく、範囲(レンジ)である。どこまで自分のコミュニケーション力が通用するか。


王様は民があって王である。王国とはそういうものだ。マスターもまたスレイブがいてマスターとなる。スレイブがいなければマスターと成り得ない。つまりマスターとしての自分に執着すればスレイブに依存することになる。逆支配がそこに出現し、事実上のマスターとスレイブが入れ替わることになる。

多分に性行為は男性性に結びつけられがちだけれども、それこそ1人でする行為ではないので、「セックスが下手」ということは、セックスをした2人が(2人じゃないかもしれないけれども)下手ってことなんではないかと思うわけです。だったら気持ち良くなる様に、それこそコミュニケーションを取るべきだろう。いきなり本番じゃなくて、事前の打ち合わせがないから本番事故になるんじゃないのか。

言いたいことを言うな、ではなく「ものには言い方ってもんがある」のである。ブーブを見てブーブと言っていては、2歳児にも劣る(赤子は交渉のプロだと思う)だろう。「仮定で話ができるかできないかが大人と子供のボーダー」と習ったが、発言一つでどう変化するか仮定できなければ成長は見られないのではないだろうか。

「じゃあ、現金で全部持って行きますか?3千万くらい」

追記:無事に引越終了。

嫁は妊娠中。もうすぐ八か月。
西日の部屋で、ソファに座ってお腹を撫でてる嫁を見てたら、なんとなく言いたくなって
後ろから抱き締めて「愛してる」って言った。
ただ、俺の嫁、ろう者なのね。なんも聞こえないの。わかんないの。
わかんないはずなの。
でも、嫁、振り返って
手話で
《わたしも》
って言ってくれた。
俺、明日もがんばれるわ。

間接民主政治は、主権は国民にあると勘違いさせる為に議会を開くが、実際は議会の前に答えが決定しており、実際の主権は国民にない、という様な感じで、国の政策と国民の実態が乖離し始めると「僕らの国が侵略を受けている」と問題がすり替わる。

為替を見る限り、対円のドルが90円台にそろそろ着地しそうだが、まずはユーロ-ドルの差をもう少し縮めるべきだろう。ユーロシフトが顕著と言われていたにも関わらず、結局米ドル立てに散々影響を受けるくらいならば、ユーロ不況よりも、ドルの立て直しが先決の様な気がする。素人考えではあるけれど。1ユーロ、1.2ドル位まで(超希望)差が詰まれば良いと思っている。

追記:ドルは80円台後半が正解。ユーロは見通し正解だった。

で、もっと言いたいことは人のセックスの回数が多くて気持ち悪いとか言っちゃってる奴は、自分が親のセックスで産まれて来たことをもう一度考え直せよって言いたい。まぁ回数は関係ないんだけれどもね。でも、アナタのお父さんとお母さんが、前戯っていうかフェラとかクンニにして(即ハメだったかもしれませんが)、チンコ入れてアンアンして(演技かもしれませんが)中出しした結果がアナタですよって、親の死に目で考えたら良いと思う。そういった事を考えられる人間が言う「家族は最高」ってのは僕は納得できますが、そういった部分から目を背けて「血の繋がった家族は世界に一つしかないんだから」なんて綺麗事言う人間は嫌いです。

逆に企業を変えようと思ったら、まず自分が変わらないといけないのだ。人間関係や恋愛でも同様だろう。「あいつが」「あの女が」「男ってさぁ」と自分を顧みず、いつまでも人の所為にしていては何も変わらないのだ。いつまでも自分のブラインドを見ようとしない内は視野は広がらないのだ。何故その人間関係が結ばれたのか。何故その恋愛が終わったのか。客観的に自分を振り返ることのできない人間は何度も同じ事を繰り返すことになるのだ。そしてもちろんそれは僕にも当てはまることではある。

子供を育てる、という行為はその繰り返しだと常々感じる。育てる側に完璧な正当性はない。よって立つ正当性は自分にしかないのだ。であれば子供の成長に反応して、自分もアップグレードを繰り返さなければバランスが取れない。子供に抜かれない様にするのではなく、既に抜かれている子供に追いつく為にである。



フリーザに襲われてるナメック星くらいやばい」

現状を捉えればその為の派遣契約でもあるのだ。同時にそれはポスト・フォーディズムとしてのトヨティズムの終焉ということも言えるだろう。2009年、 2010年に景気が上向いた状況で、労働者はまた派遣契約を行うのだろうか。フォーディズム的労働を行いながら、フォーディズム的分配を得られない居場所に戻るのであろうか。

追記:非正規雇用をなくすんじゃなくて、正規雇用の特権性をなくせば良いだろう。あまりにもその差が開きすぎている。意識もシステムも。