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最近は写真日記。

窪塚洋介と木村拓哉

 思いっきり芸能ネタ。窪塚洋介が自宅マンション9階から飛び降りたか、足を滑らしたかしたらしい。僕の中では窪塚はGOのイメージが強い。もちろん池袋ウエストゲートパークでのキングも存在感抜群だったが、GO以降の窪塚のイメージが強いのだ。GTOやストロベリー・オン・ザ・ショートケーキでは窪塚はただの俳優であったが、GOの主人公とのシンクロ以降、反社会的な立場を取るようになり、その発言をメディアが取り上げるようになった。
 窪塚洋介にしても木村拓哉にしても、若者*1のカリスマとして、彼らの発言はメディアに誇張されて若者に多大な影響を与える。例えば池袋ウエストゲートパーク以降、窪塚が出れば話題性で数字は取れるし、キムタクが出れば最低限の視聴率は確保できるわけだ。GOまでの俳優としての窪塚洋介は好きだった。しかしそれ以降の、公の場での彼の言動には稚拙さを感じずにはいられない。同世代のオピニオンリーダー的存在としてメディアに担がれるも、その機会を上手く活用できていない。
 キムタクに関して言えば、僕が高校の頃は彼の黄金時代で、テレビでもクラスでも話題の人だった。人生観やファッションなど、あの時代の流行はキムタクに集約されるものがある。しかし僕はキムタクには何の興味も示さなかった。それどころか嫌悪感を抱いていて、ドラマでのキムタクはまだ見ることができるが、フリートークでのキムタクは、窪塚の言動と同種の矮小さを感じずにはいられない。それはあの当時、彼は既に役者としてではなく、若者のカリスマとして存在していたからだろう。
 タレント、役者が若者のオピニオンリーダー、もしくはカリスマ的な存在になるというのはメディア戦略からすれば自然なことなんだろうが、僕からすると秋葉チャンがグラビアアイドルを追いかけることと同種の現象でしかない。つまりは現実と仮想のバランスが取れていない。公的な立場で発言ができるような人*2は、メディアに利用されつつも、それを見越して視聴者を先導して行くべきだろう。特にオピニオンリーダー、カリスマと呼称されるからには、十分自分の発言の影響力を考慮するべきだ。
 僕が彼らに対して抱いた嫌悪感はそこにある。タレント、役者として脚本を読んでいる間はまだ機能しているが、一端脚本から外れ、自分の言葉で話しをする機会を得ると、役柄、台詞で覚えた言葉に依存して、それを如何にも自分のキャラですよと言わんばかりに話し出すことだ。それも番宣ならばまだしも、まるで関係のないところで公共の電波を使ってそういう発言をされ、それを真に受ける人たちの話しを聞くのも飽き飽きである。タレント、役者としての能力と、オピニオンリーダーとしての資質はまるで違うところにある。といっても、結局は日本のメディアに消費される交換可能なものでしか存在できないのだろうか。

*1:範囲はドラマ志向、アイドル・ワイドショー志向の人間

*2:範囲はタレント、役者など視聴者に影響を与える存在。政治家などの公職は範囲外