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最近は写真日記。

A.T.フィールドとコミュニケーション不足

 Negozioとはイタリア語で店という意味があるが、特に小売り店に対して多く用いられる。僕の実家は前述した様に自営業であり、僕が引き継げば4代目ということになる。幼少の頃から店に立ってはお客さんの邪魔をしていたし、人がいない時は、今でも店番をしている。大型店、特に米国型スーパーマーケットが出店し始め、核家族化が進むとお客の質が変化した。「モノを知らないお客」が小売り店に来るようになったのだ。
 ただモノを知らないならば良いが、聞きもせずに値段だけで購入して、後から「あんまり美味しくなかった」というクレームを付けにくる客がいる。上述したイタリアのNegozioという意味には、もう一つ交渉という意味がある。英語のNegotiationと同義だ。つまり買い物は交渉であり、コミュニケーションによって契約が成立する。そのためイタリアでは今でも小売り店での買い物が主流だし、大型店と小売り店の併存が上手くいっている*1
 しかし日本では大型店と小売り店の使い分けのできない消費者が増えてきた。値段に気を取られ、特売品だけを選ぶ消費者にはモノがわからない。例えば一流のお客というのは、自ら産地と収穫時期を知っているし、それに合わせた商品を購入しに来る。例えば発送商品にしてもできるだけ良いものを望む消費者は、今でも小売り店に赴き、「スーパーやデパートに売ってるものを地方に送ることはできません」という。これは基本的なことで、その地方によって発送するものを考えなければならないし、時期もある。またその時々によって美味しいものは変化するのだ。結果として店主とコミュニケーションを取り、1番良いものを発送する。一流スーパーやデパートではそこまで考えていても、結局最後まで消費者の面倒をみきれていない。そういった消費者のために小売り店が未だに存在しているのだが、そういうお客さんに限って未だに士農工商的な発想があって対応に困る。
 僕は根本的にA.T.フィールドが強い。自分の絶対領域が広いのだ。ある時期までは節操なく知り合いを作り、其処彼処で良い顔をしていた。僕を知る友人からは「出た!営業スマイル」と言われるが、ここ数年の間にそういったものが閉じつつある。以前は絶対領域が強いながらも、それを見せないようにして、色々な人に良い顔をしていたが、最近ではそういった行為すらも回避しつつある。絶対領域に踏み込む人も居るが、全てを覗かせるつもりもなければ、大体の場合において踏み込んだ人間は「僕」という人間を勝手に構築し始めるので、結果として構築された「僕」を演じるということになる。
 僕以外は他人であって、家族でさえもその範疇にある。僕という個の中には入れない。「人に自分を見せる勇気がない」「他人を信用する勇気がない」と言われても特に問題はない。「人生においてたった1人でもコミュニケーションが成立すれば、それで俺は良い。そのために俺には宗教がある」と言った友人がいる。「あいつはこういう奴だ」と決めつける人間に言い訳をしたところで「だからあいつはこういう奴なんだって」で終わる。僕にとって学問はそういった「場」を提供するためにあるが、学問を表現に使うには未だに得体が知れない。
 良い買い物をするためには、モノを知らなければならない。それはつまり交渉を行うには消費者側も商品に対して学んでいなければならいないのだ。そして共通した物事に対して、それぞれの意見を交換し合う。それがコミュニケーションになる。つまりお互いに学ぶ努力をしていなければならず、コミュニケーションの場となるものが共通条件になる。対人関係にしてもそうだ。僕が今閉じているのはコミュニケーションが成立しない関係。そして求めているのは「人生においてたった1人でもコミュニケーションが成立す」る様な人間だ。僕の友人が言った様に「人生においてたった1人」かもしれないが、それでも僕はそういった人間に出会いたい。

*1:関係の面であって、経済の内容ではない