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最近は写真日記。

デッサンと実測

 「デッサンは、どれだけ対象を観察できるかなんです」と芸術の道に進んだ後輩に教えられたことがある。小学校高学年に上がった頃、クラスでは漫画を描くことが流行っていて、絵の上手い子達は尊敬の眼差しを向けられていた。僕もそれなりに練習してはみたが、線一本引くにも、上手い子達に比べるとまるで違っていた。彼らの引く線は迷いが無く、そして力強い。僕が引く線は、まるでミミズが這いずり回った様になる。
 例えば立方体をデッサンした時に、僕が描く立方体は、僕の目の前にある物体からはほど遠いものになる。美術の授業でデッサンをやらされる度に、立方体を諦め、ピノキオとかコジコジの絵を書いていた。しかしデッサンが上手い人間は、まるでそこに物体が存在するかの様に陰影をつけ描く。
 建築や考古であれば実測図というものがある。デッサンがフリーハンドだとそれば実測図はツールを用いて描く。そのため原則的には誰が描いても、最低限の情報は同じ様に読み取れる様に成っている。デッサンの下手な僕でも、平面図や断面図、土器の実測図を描ける様にはなる。というのも実測図を描くためのツールはほぼ決まっているの、そのツールを使いこなせさえすれば良いだけである。
 そこで森博嗣の言葉を思い出した。「科学が進歩して何が変わるでしょう?」という質問に、彼は「科学が進歩すればそれだけ客観に近づけます」と答えた。また「客観は主観の裏返しであり、思いっきり主観的な情報を入力してこそ、そこに客観性が生まれる」とも言っている。
 デッサンはフリーハンドである分、思いっきり主観である。だからこそ、僕がデッサンをすると、目の前にある物体とはまるで違うものが描かれる。しかし対象をしっかりと観察できる人間がデッサンをすれば、本当にそこに物体があるかの様に描くことができる。逆にツールを用いた場合、文明の利器を使い、誰が描いても最低限の情報は守られる。
 臨場感のある主観的な情報から客観性を読み取るか、メインに客観性を持ってきて、足りない部分を主観で補うか。どちらにしてもパーフェクトな客観に到達できるわけではないが、学問にはどちらも必要な視点である。ちなみに考古学ではどちらの技術も求められる。対象を観察し、ツールを用いながらも、ツールでは読み取れない細かい部分を、フリーハンドで描く。この意味が僕には最初理解できなかったのだが、これ以上は方法論の話しになるので終了。