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最近は写真日記。

オーストラリア語学留学:その1

 1995年3月23日だったかと思う。成田からオーストラリアのパースへ。Qantas航空の直行便。飛行機の垂直尾翼にカンガルーのシルエットが描かれている航空会社がカンタスだ。高校から留学の許可が出るのに長い時間がかかったのは以前書いた。1994年6月の夏休み前の段階では僕は米国のオレゴン州に行く予定だった。つまり高校2年の2学期から休学するつもりだったが、夏休みに入って間も無く部活中に担任に呼び出された。米国のオレゴンではなく、オーストラリアにしなさいという内容だった。1993年は米国で日本人留学生が射殺され、1994年の僕らの修学旅行も米国からカナダに変更になった。1994年は米国への日本人留学生や修学旅行生が減った年だろう。
 僕は別に英語さえ学べれば構わなかったので、それならばオーストラリアでと返事をした。返事をしたが、その後に担任から帰ってきた言葉が「それならば3学期も終わらせなさい。それも良い成績で。オーストラリアも4月始まりだろうから」という返答でかなりもめた。成績がどうなったかは覚えていないが、とにかく高校2年を終わらせた。オーストラリア留学は学校側の意向なので、手続きなども高校の言う通りに行った。修学旅行でもお世話になったJALの営業の方に全てをお任せして、ビザやチケットなどを取った。保険は今では何に加入したのか覚えていないが、東京タワー近くの外人医師のところで検査をし、何度か通った記憶がある。
 オーストラリアの学校は、高校の当時の提携校でPHOENIX English Language Academyという語学学校だった。ちなみに僕が選んだオレゴンの学校は一般高等学校であって、語学学校ではない。どちらにしても交換留学制度も確立していなかったし、単位認定もされないので1年の留年は決定だった。今考えてみてもどちらに行った方が良かったのか判断し兼ねる。
 パソコンは持っていなかったので、ありったけの本とCDを詰め込んで、スーツケースは35キロくらいになった。それ以外に書類などを入れた鞄が一つ。品川から初めて成田エクスプレスに乗り、JALのツアーの皆さまと一緒に飛行機に乗り込んだ記憶がある。流石にその当時は親戚や友達が見送りに来てくれたが、あの時の写真を見ると吹き出してしまう。というのも、何を勘違いしたのか僕はスーツを着ているのだが、それがまた妙に浮いていて突っ込みどころが満載だからだ。