apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

大学院進学と研究者と自殺行為

 ちょっと前に辿り着いたid:dice-xさんの思考錯誤。大学の教員と聞くといつも「先生と呼ぶべきなのか?」と一瞬戸惑ってしまうが、そこら辺は濁しておこう。「[edu]大学院進学はまちがいなく自殺行為である」id:dice-x:20041129から始まる一連の日本の大学院事情に対する記事は楽しめた。
 院進学が自殺行為であれば、僕の場合は既に瀕死状態かもしれない。未だに学部である。しかも文系。研究所に居る時も「はぁ?今からイタリア行くの?やめとけって、帰って来ても仕事ねぇから。イタリアなんて行かずに、新潟の現場行かないか?」と、知人の私大教授に言われた。所長の方は「ダメだって。こいつは何言っても聞かないんだから。良いんだよ、こいつはそうやって生きていくんだから」と笑いながらタバコの煙を吹かしていた。
 ホストを辞める時も「考古学?ばーか、そんなもんはさぁ、店一つ持ってからやりゃあ良いじゃんよ。そっからだって良いだろうが。今の大学出てそんなこと続けるより、ホストやったほうが稼げるって」と専務と小一時間。ちなみに日本の大学の研究室の教授は「お、良いね。やっぱり行くか。面白そうで良いなぁ」なんてのん気なことを言っていた。本人からすれば、長生きを目指すような人生ではないので、「やりたいことはやれる間にやっておこう」くらいな感じである。

(東大以外の)大学院担当教員のみなさん、院試の面接の際には、まず「一生何もしなくても食っていけるくらいお家がお金持ちか」を訊き、次に「食い扶持が十分稼げるサイドビジネスを持っているか」を訊き、そのいずれでもない人には、ちゃんと「死ぬ覚悟があるか」と訊きましょう。

 とid:dice-xさんは教員関係者に呼びかけているが、院に進学する学生の面倒をそこまで見ないといけないのか、と憂鬱になる。「死ぬ覚悟があるか」否かは、別に大学院に進むか進まないかに関わらず、人生にはいつも付き纏う至極自然な問題だと思う。「私は絶対に死なない」と思ってる人間は少ないだろうが、「どの瞬間にも私には死ぬ可能性がある」とリアルに考えていない人間は沢山居るだろう。僕は「覚悟」という言葉を以前にも使ったが、結局示すものは「死ぬ覚悟があるか」になる。そんな「覚悟」も無しに、それどころかそんな疑問すら持たずに大学進学さえも許されちゃうのだから、素晴らしい世の中である。そういう人生ならばいっそうのこと大学まで義務教育にしたら良い。もしくは死ぬまで義務教育*1とか。
 それに研究者になることと、教育者*2になることは、もっと区別されるべきだ。教授の皆さまはただでさえ会議会議で、その上生徒指導もしなければいけないとなると、自分の研究は後回しになってしまう。id:dice-xさんの提案するTA制度はそういう意味でも様々な利があるが、ただ博士課程の敷居が低くなった今では、ちょっとした害も出るだろう。何処かの大学で率先して始めてくれたら、以外とすんなり浸透するかもしれない。
 ペルージャでは奨学金に返済義務はないし、僕より若い子が授業を受け持っていたりする。ユーロ圏では経済的な問題があるイタリア。日本の一ヶ月の生活費で年間どころか2年分の学費は楽々払えるし、それで充分国立大学は成り立っている*3。そんなイタリア国立大学の学費の何十倍も取りながらも、日本の大学のシステムはまるで成り立っていない様だ。学問では喰えないけれど、学問をすることに依って大学を長生きさせてみたり。どんなギブ&テイクだかわからない。
 研究者に成りたいから院に進み、お金が無くなったから研究者を諦めるというのも、今の僕にはわからない。学生がそうであるように、何かを学び始めれば終わりはない。研究者なんて肩書きは死んでから「あいつは死ぬまで勉強してたな。ああ、研究者だったんだ」と付けられれば良い。プロとしての肩書きとして研究者という名前はあっても、人生において研究者なんて肩書きがあるとは思えない。人生で成功したいのか*4、研究者でありたいのか、そこら辺の区別もしっかりとつけてもらいたい。
 こういう話しを読むと、次から次へと不満が出てくるので、どうしようもない。それにしてもいつになったら日本は学問とビジネスをしっかりと両立できるのか。僕らは、僕らの子供たちに未来を返して上げることができるのでしょうかね。

*1:誰が教育を受けさせる義務を負うのかは微妙だけれど

*2:僕はこの言葉を信用していない

*3:表向きは

*4:成功が何を意味するのかはそれぞれで