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最近は写真日記。

物語かキャラか

 ライトノベルが大人気の様だが、キャラ萌えが主流だろう。ゲームにしても漫画にしても、アニメにしてもその傾向が顕著に伺える。物語があるにも関わらず、キャラものが売れる。物語から乖離してキャラが1人歩きする。東浩紀大塚英志が再三指摘してきたことだ。
 それがポストモダンだ、大きい物語、小さい物語だ、という話しではない。僕が気になるのは、商業的には成功しているそれらの作品が、まるで作品の価値を認められていないことである。商業的に成功すればそれが価値になるのだろうが、作り手側としてそれで良いのだろうか。例えば先日の福田己津央であれば「商業的に成功しなければ意味がない」と言い切る。
 森博嗣が、プロとアマチュアの差を上手く表現していた。「プロは1000円のギャラであれば、1000円の商品を。10000円であれば10000円に見合った商品を作り上げる。アマチュアは違う。自分の表現したい事柄が先に立ち過ぎて、商品価値を見失う」と。
 クリエイターとしてのプロとアマチュアの差はそれが全てだろう。しかし市場に出回るのは全体では無く部分だけである。作品が受け手側に勝手に分解され、パーツが彼らに依って勝手に再構成される。部分は全体の要素ではあるが、全体には成りえない。キャラ萌えにしても、物語に関係なく勝手に人間関係が受け手側に依って再構成される。
 キャラがメインであって、物語は交換可能なものである。だとすればクリエイターが目指すものはキャラ作りでしかないのか。僕はキャラよりも人間性を見るし、物語はその人間性の関わり合いに依って生じるものだと考えている。キャラ立ちしていたところで、物語が喪失しているものが商品価値を持つ世の中は何かが傾いている。逆に、物語ができ上がっている作品に対して、それを安直に上辺だけを楽しみ、キャラ萌えする方法も偏り過ぎている。商品と作品の境界が希薄に成れば、クリエイターの存在意義はファクトリーと同然である。そこには意思が無くなってしまい、それは森博嗣が定義したプロとアマチュアの、プロの意味とは違う存在になってしまう。